蔵馬(南野秀一)

-多重定義な理想主義者-

 蔵馬……う~ん……この方って、結構、幸せな方だったと思う。
 『幽遊白書』の最終回のラストで、各キャラクターの表情がワンカットずつ描かれてるページで、蔵馬は笑ってるでしょ?
 私はね、だから蔵馬はなんだかんだ言って、とっても幸せに生きてる方なんだと思ったの。
 あの蔵馬の笑顔ってのは、とてもやさしくて、とてもせつない感じがする。
 なんだか、遠い幸せな日々を思い出してなつかしんでいるような感じの笑みだと、最初に見た時に私は思った。
 思い返してみれば、蔵馬はいつもそんな表情で微笑んでいた。
 蔵馬は今、目の前に確かに存在している光景を、なつかしむ。
 それは蔵馬が、この世の中に在るすべてのものが、しっかりと存在しているはずのものが、実はひどく脆くてはかないものであると知っているからなんだと思う。
 そして、いつか必ず壊れてしまうとわかっているものたちとわかっていても……わかっているからこそ……命をかけてでも護りきりたいと、切実に願っている。
 だから、蔵馬が愛しいものたちをみつめるまなざしは、いつでもやさしくてせつない。


 私は、飛影ちゃんは“情が深い”子で、桑原くんは“情に厚い”子で、コエンマさまは“情の強い”方なんだと思っているんだけど、ずっと蔵馬の“情”ってのはどういう表現がふさわしいのかわからなかった(幽助は“多情仏心”て感じがする(苦笑))。
 それがね。『幽遊白書』の連載が終了してからかなり経ったある日、本当に突然、わかっちゃったんだよ。
 蔵馬ってのは、きっと“情が濃い”んだ!
 “情が濃やか”って表現があるけど、蔵馬のは“こまやか”というよりも、そのものずばりで“こい”んだな(笑)。
 なんか、そう思った瞬間に、私の中の蔵馬像というやつが、ものすごくクリアになった。外枠しか組めてないジグゾーパズルのピースがいきなりピシッとあるべき場所に収まって、できあがったその絵の中で、すんごい美人の蔵馬がにっこり笑ったような感じでね。「ああ、なんだ。こういう絵だったのかあ」って……(それにしても、すっごく幸せだったな。それに気づいた後、1週間ぐらい(笑))。
 さて、話を本線に戻すと、蔵馬ってのは、そりゃもうドロドロに情が濃くって、喜怒哀楽といったあらゆる感情がものすごく激しい人なんだと思うの。
 だから、嬉しい時や楽しい時は誰よりも幸せそうに笑ってるし、怒った時は誰よりも怖いし、哀しい時は誰よりも深く傷ついている。
 一番、クールな顔をして、実は誰よりも感情的なのが蔵馬なのね。
 しかししかし、クールな蔵馬も、完全な“擬態”というわけではない。
 感情的な反面、やはりこの方は徹底的にクールな方なんだと思うの。
 どんなに怒っていても、どんなに哀しんでいても、同時進行で蔵馬は現状を徹底的に分析し、策略を練り、最善の道を選択するための準備を進めている。
 入魔洞窟で月人くんを殺してしまった後、内面で怒り狂いながらも(あの蔵馬が、幽助を気遣う余裕もないほど感情的になってたからねー)、巻原の肉体から戸愚呂・兄の匂いをしっかりと嗅ぎつけ、もっとも効果的な復讐の方法を考えていたあの時のように。幽助を殺されて、きれて魔界に飛び込んで、仙水と闘っている時でも、飛影ちゃんの状態を冷静に観察していたように(あの時の飛影ちゃん、絶対に蔵馬のこと目に入ってなかったよ)。
 そういう自分って、かなりうっとうしくって、計算高い自分がイヤになることもあったりするんじゃないかと思うんだけど、それでも、そういうことができる自分には利用価値がある、とか考えてしまうような方だから……ちょっとツライかもしれない。


 私の友人が、蔵馬について、ものすごくユニークで的確な表現をしたことがある。
 いわく、「蔵馬って、シュガーコーティングしたケーキみたい」。
 これだけじゃ、さっぱり意味がわからないだろうから解説すると、シュガーコーティングしたケーキってのは、外側はひたすら甘い(まあ、ものによっては甘くないけどね)が、結構、堅くって、おまけに外から見てるだけじゃ、何か入ってて、どんな味なんだかさっぱりわからない。外だけ甘くて、中はむっちゃくちゃ苦いかもしれないし、実は吐きたくなるほど甘いかもしれない(笑)。
 蔵馬も見かけは甘くてやさしくて、女の子たち(に限らないけど)を惹きつけるけど、その砂糖のガードは堅く、中味まで到達できる人はなかなかいない。だから、その中味がどんな味なのかを知る人も少ない。おまけに、シュガーコーティングをすると、ケーキが日持ちするんだよ!(だから長生きなんだな……って……かなりハズしてる……)
 ちなみに、その外見も見ずに、いきなり包丁を突き立てて、中味をさらけ出させちゃうのが幽助であったりする(苦笑)。
 で、私が考えるに、蔵馬の笑顔のコーティングの下にはドロドロに濃い感情が詰まってて、きっちりと固めておかないと、内側が崩れて流れ出し、固形を保っていられないんじゃないかしらね。
 だいたい、この人、いちいち感動が濃いから、えらく些細なことに、すばらしく感動していたりするあたりが、すごくカワイイ。
 特に、「おふくろさんの式…悪ィな。いけなくて」と幽助に言われたのを「うれしかった」と言っちゃうあたりが、私はすごい好き。ああ、蔵馬ってば、こういう些細なことに喜びを感じて生きているのね。とか、思ったら、あまりのケナゲさにくらくらきちゃったわよ、私。


 蔵馬は頭がよすぎて、時々、かわいそうに感じることがある。
 この人ってのは、他の誰も気づかないうちに、一番、大変な仕事を選び出して、ひとりでさっさと片付けちゃおうとする人だから。
 もうちょっと頭が悪ければよいのにね。なまじ頭がいいもんだから、的確に一番のビンボウクジを選び出すことができる。それで、自分は何も大変なことはしてません、って顔して皆をだまして(蔵馬には自分が一番、苦労をしているという自覚はなくて、自分の大事な人に苦労をさせる方がつらいのだから、だましているという感覚はないのかもしれない)、そしてちゃんとだまし続けることができる人だからね(そりゃもう、一度、嘘をついたらきっちり墓場まで持ってくタイプだわ)。
 それでもまあ……そういう形で、自分の大事な人たちを守っていくのが、蔵馬の生きがいなんだろうと私は思うので……それはそれで、蔵馬は幸せなのかもしれない。


 蔵馬って、なんでわざわざ志保利母さんをだましてまで、黄泉のところに行かなければならなかったんだろうか。
 昔、ものすごい額の踏み倒した借金があって、実はそれを踏み倒したことさえ意識からはずれてて、ある程度、生活が落ち着いて、自分に余裕ができた時、ああ、そういえばあそこに借金があったから返さなきゃ、という感じかなあ。
 だけど、「黄泉には借りがある」とか言ってたけどね、あんだけひどいことして「借り」もないもんだと私は思うね(黄泉を見てると、殺そうとしたのがひどいんじゃなくって、殺しそこねたのがひどい、という気になってくる)。
 この場合の「借りを返す」ってのが「償いをする」っていう意味だとしたら、蔵馬にしてはあまりにもハズしすぎだと思う。だって、今更、償いも何もあったもんじゃないでしょう(やらないよりはマシかもしれないけど、あきらかに遅すぎ!)。
 蔵馬はね、黄泉に対して、未練とまではいかないけど心残りはあったと思う。妖狐・蔵馬が黄泉をかなり近いところに置いていたのは確かだと思うから(少なくとも、戦略に関する講釈をたれるぐらいには(笑))。
 だけどさあ……一体、蔵馬は自分が黄泉に何をしてやれると思って、黄泉のところに行ったんだろうか、と考えちゃうのね、私は(幽助のためだけに行ったとしたら、黄泉がかわいそすぎる)。
 参謀としての蔵馬はもちろん有能(もしかしたら、魔界一かもしれない)だけど、本気で黄泉が参謀としての蔵馬だけを必要としているって、思ってたんなら、かなりニブすぎるし、それは多分、ありえない(それとも、自分に対する黄泉の執着の程度に気づいてなかったのかなあ)。だけど、蔵馬が黄泉を更正(?)させようとしたってのも、なんか違うような気がするし、元の鞘におさまろうとした、ってのはさらに違うと思う。
 単純に、黄泉の気のすむようにさせてやりたかったのかなあ……うーん……わからない(しかし、あの当時の黄泉と蔵馬は、まるで離婚訴訟中の夫婦のようだった(大笑))。
 だけどね。蔵馬は志保利さんの影響を受けて、いきなり妖狐から南野秀一になったんじゃなくって、元々、妖狐の中に、南野秀一になり得る素養があったんじゃないかと私は思うわけよ。
 だからさ……妖狐の中にも、南野秀一的(って、この表現なんか変なんだけど、他に表現のしようがない)なところがあって、その部分で妖狐さまは黄泉を愛していたのかもしれないと思う。
 盲目的に自分を信じ切って、誠実に従ってきてくれる黄泉を、きっぱりと切り捨てられなかった部分が妖狐さまにはあって、その中途半端さが黄泉にあれだけの未練をひきずらせてしまったのかもしれなくって、蔵馬の「借り」ってのはもしかしたらそれのことなのかもしれない。


 蔵馬が、みずからに課した自身の役割は、“守ること”なんじゃないかと思っている。
 自分の大事なものたちを、平時にあっては静かに見守り、何か事が起こった時は、自分の持てる力のすべてを使って守り抜く。
 蔵馬が守りたいものは、平凡な家族の平凡な毎日であったり、幽助のわがままであったり、飛影ちゃんのきまぐれであったり、桑原くんの成績であったり(笑)、ただの通りすがりの子供の笑顔であったりするんだと思う。
 どんなものでも、自分が愛しいと思えるならば、いくらでも自分自身を利用(乱用?)して守ろうとする……私にとっての蔵馬は、そんな人だ。
 幽遊のコミックスの最終巻の巻末に描かれた蔵馬の絵では、南野秀一を妖狐さまが背後からかかえこみ、共に真正面を見据えている。
 蔵馬は自分の中に、妖狐と南野秀一をかかえこんでいる。しかし、蔵馬は“多重人格者”ではなく、“多重定義者”と言うべきだと私は思う。妖怪と人間という存在は、蔵馬にとってはまったくかけ離れたものではなく、単に別々の定義づけがなされているだけの、そんなに違わない種族で、妖狐と南野秀一も、それぞれの名前と姿で妖狐と秀一と定義されているだけで、元々はひとつのものであるから。
 穏やかでやさしくて激情的で冷徹、といった、一見、分裂した性格も、根っこのところではすべてがひとつにつながる。喜怒哀楽が激しいだけなんだ、蔵馬は。
 人間であることも妖怪であることも、秀一であることも妖狐であることも、等しく受け入れながら、背負った罪と業のすべてを肯定し、多重に定義されている自分の存在を何ひとつ否定せず、幸福も不幸も、喜びも苦しみも悲しみも、全身で感じて受け止めて、決して目をそらさない(「何も捨てない、ただ足していくだけ」って、CMコピーが昔あったけど、蔵馬って本当にそういう生き方してるなあ)。
 蔵馬が、一番、大切なもののために、他の大切なものを切り捨てることができてしまうのは、一番、大切なものを守りたいという感情に忠実だから(迷わないわけはないんだろうが、あんまり意志力が強いので、ほとんど表に出てこないんだな)。
 だから、蔵馬は自分のことを利他的とは思っていない。多分、徹底的に利己的なヤツだと思っている。そして、大切なものを切り捨てなければならなくなった時にすごく怒るのは、切り捨てた自分にではなく、両方とも守ることができなかった自分の力不足に怒るのだろう。
 理想主義者のくせに、その理想が成立しない現実を誰よりも的確に把握してしまうクールな目があるから、蔵馬は時々すごく気の毒。
 そして、計算上では現実化しないはずだった理想を、いともあっさりと現実化しちゃったりする幽助か、蔵馬にとってはむっちゃくちゃ大事でうらやましくて愛しいんだと思う。
 蔵馬は、大切なものを守るためなら、どんなにきたないことでもやる、と決意していながら……世の中のきたない部分をいくらでも知っていながら……誰よりも“きれいごと”を見たがっているんじゃないかと思う。
 蔵馬はきっと、「みんなが幸福でいられますように。みんなが仲良く暮らしていけますように」といった、おとぎ話にも似た理想を追いかけたがっている(要するに蔵馬は、幽助とはまた別のところで強欲なのだな)。
 蔵馬は多分、これから先、ずっと苦労するだろう(まあ、本人は別に苦労とも思わないだろうけど)。それでも、蔵馬は幸福であり続けるんだと思う。
 蔵馬には、幸せになる、という断固とした意志があるから。些細な幸せも残らず拾い上げてかみしめることができるから。蔵馬は何があっても幸せになれる人だって、私は思っている。

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