浦飯幽助

-幽遊界の無邪気な神-

 『幽遊白書』の連載が終わって、もう3年になる。
 私が幽遊キャラの中で一番、愛しちゃってるのは、誰が何と言おうと、一度もゆらぐことなく、どこからどう考えたって飛影ちゃんだけど(って、ここまで念押ししなけりゃならないことじゃないな……)、ふとこの3年間を振り返ってみると、一番、よく考えていたのは、幽助のことだったように思う。
 私は飛影ちゃんを愛しているが、多分、それ以上に『幽遊白書』という物語を愛している。
 そして、幽助こそが『幽遊白書』なんだと、私は思う。
 そう思うようになったきっかけがなんだったかというと、実は、幽遊のコミックスの最終巻の巻末に載ってた描き下ろしのイラスト群の中の幽助だった。
 あの絵は人目のあるところで見ちゃいけない絵だよねぇ(苦笑)。一人っきりで、「よおっし、見てやろうじゃないか!」って覚悟きめて見るべきものよ、あれは(実際、私はいまだにそうしている)。
 私なんか、最初、本屋でなんの心の準備もなしに、「最終巻が出たんだあ」って気軽にめくって、あの絵を見た瞬間に、おもわずパタンとコミックス閉じちゃって、動揺のあまりそのままその場にへたりこんじゃって、「見てはいけないもん見てしまった……」とつぶやいてしまったのよ(相当、アヤシイ姿だっただろうな)。
 もう、買うのやめようかと思ったぐらいだったけど、やっぱり買ってきちゃって、家に帰って、あのあまりにも激しい動揺の理由を確認しようと、あのページを開いて、あの幽助をじーっと見てたら……今度は涙が出てきて止まらなくなった。
 幽助があんまり綺麗で怖くて哀しくって、ショックだった。
 直立して、正面を見据える、あの幽助の瞳は、とても澄んでいて……だけど、虚ろな感じがする。
 あの瞳には、邪眼よりもはるかに遠くのものを映す能力があって……それなのに、本人は何も見ていないような気がする。
 彼は、自分を取り巻く世界に興味がない。その世界は、彼が帰属すべき世界ではないから、その世界にどんな風景が広がっていて、誰がどういう生活をしているのか、まったく興味がない。その世界は、彼にとってまったく意味も価値もない存在。だから、見ない。
 彼にとって、世界は不要。なぜならば、彼自身が孤立したひとつの世界であるから。
 私には彼が、過去も未来もなく、性別もなく(この幽助って、女性的なにおいがする)、年齢もなく、感情もなく、限界もなく、ありとあらゆる定義や呪縛から解放された……必要とするものなんて何もなくって、光とか空気とかがなくっても、世界中が砂漠になっても、平然として立っていそうな存在に見える。
 完成された“神”であり、美しい肉体を持つ“生き物”でもあるもの。
 『幽遊白書』の物語が続いていたのならば、幽助はおそらくこういう姿に進化したのだろうと、私は確信してしまった。
 だけど、何も必要としないなんて、悲しすぎる。飛影ちゃんも蔵馬も、桑原くんも螢子ちゃんも必要としない幽助なんて、あんまりにもさびしい。私は、誰もついていけないところに、ひとりでいってしまったあの幽助を見るのがつらい。
 私が、あの幽助を見るたびに泣きたい気分になってしまうのは、何度、見ても、そういう印象が払拭されるどころか、強化されてしまったりするから。
 ちなみに、後でかなりたくさんの人に、あの幽助についての感想を尋ねてみたんだが、私のようにパニックを起こしたという人はいなくって、どうやら、私だけが他の人たちとは違うところでクルクル回っていたらしかった(それもまた、かなりなショックだったわよ)。


 幽助は“人間”なのか、“魔族(もしくは妖怪)”なのか? そもそも、幽助とは何者なのか?
 それは、私が幽遊を読んでいて、常に抱えていた疑問だった。
 そして、私はその疑問に対するひとつの、そして私にとっては絶対的な解答を、あの最後に描かれた幽助を凝視していてみつけた。
 幽助は、『幽遊白書』という物語世界に君臨する“神”なのだ。
 幽助は“人間”でも“魔族”でもない。幽助が属する種族なんかどこにもない。強いて言えば、幽助は“浦飯幽助”というたった一人の種族なんだと思う。
 私が考えるに、神さまってのは「いるかいないか」が問題なんじゃない。「信じるか信じないか」、そして、「存在を信じることによって、どう変わるか」が問題なんだと思う。
 『幽遊白書』という物語は、「幽助の物語」だけど(って、そう思ってない人もいるらしいけど(苦笑))、「幽助という存在によって変化していく者たちの物語」とも言える。
 蔵馬、飛影ちゃん、コエンマさま、戸愚呂・弟、仙水、黄泉、その他もろもろの、幽助という絶対的な存在を信じること、もしくは目の当たりにすることによって、変化し、自己を回復していった者たちがいる。そして、戸愚呂・兄、樹さん、刃霧くん、神谷といった、幽助に感化されることのなかった者たちは、変化することなく物語から姿を消していく。
 むっちゃ乱暴な(もしくは突拍子もない)表現をすれば、『幽遊白書』とは、「教祖・幽助が三界を行脚(?)することによって、みずからの信者を増やし、それを心の底から信仰してくれる者たちを救済する物語」なのだ(本当にむちゃくちゃな比喩ですみませんねぇ)。
 じゃあ、幽助はどうなるんだ、と言えば、幽助は“信者”が増えるごとに、みずからの存在する力を増大させていく。
 信者を持たない教祖がいないように、幽助も信者がいるからこそ、幽助として存在できる。だから、信者の存在こそが、幽助という存在を支えているんだと思う。
 結局のところ、幽助が何をしてくれたか、は信者にとってたいした問題ではなくて、幽助の存在を信じることによって、大いなるカ(=神)の存在を信じ、自分が幸せになった、救われた、と感じたりすることこそが重要なわけで、それがまあ、信仰に対する見返りといえば見返りである。
 だからね。幽助が幽助として存在することこそが、この物語における最大の幸福なんだと、私は思うの。
 だけど、実際に、どういう基準をもって、「幽助が幽助として存在している」とするかは、私にはわからない。
 本当は、どの幽助も本物の幽助で、泣いてようが笑ってようが怒っていようが、人間だろうが妖怪だろうが神さまだろうが、どれもこれも幽助らしい幽助で、幽助が幽助として存在していなかった瞬間なんか、どこにもなかったのかもしれない……ああ、そっか……だから、この物語はやっぱり私にとっては最高に幸福な物語なのか……(って、書きながら確認している私……)。なんか、私も信者だな……幽助のことは愛してるけど、なんかヤだな……。
 一体、何者なのかな……幽助って(話がふりだしに戻ってるぞ(苦笑))。


 そういえばね。幽助の絵でもうひとつ、見るたびに泣けてくるものがある。
 仙水に殺されて吹き飛んでいく、見開きの白い幽助(16巻、P140&141)。
 あの絵はね……綺麗すぎちゃって困っちゃうんだよね。すっごく悲しいシーンなのに、ついつい見とれてしまうから、自分がイヤになる。
 「幽助が死んでるのに、それに見とれて、綺麗とか思ってるんじゃない!」って、自分で自分に怒っちゃうのよね(苦笑)。
 冨樫先生もねぇ……意地が悪いよなあ……幽助の死体をあそこまで綺麗に描くことないじゃないのさ……(しかも見開きで!)。
 連載当時、あのページ開いた途端、本気で息が止まりましたよ、私。なんか、息して見ちゃいけないような感じだった。バカだねー(だけど、今でも息をつめて見てるような気がするなあ)。
 あの絵の幽助の、首と肩のラインがむちゃくちゃ色っぽいんだ、と言ったら、一体、どこを見てるんだ、と言われたんだけど、やっぱり、今、見返しても、壮絶に色っぽい。私にとっての幽助のベストショットだね。間違いなく。


 幽助というのは、常に“必要とされる者”であったように思う。
 幽助自身が、誰かに何かを与えること、を意識していたということは多分なかったけど、それでも常に幽助は、誰かに必要とされる存在であり続けた。
 たくさんの人に愛されて、たくさんの人に必要とされて、それでも幽助は、そういう人たちにとらわれることなく、いつも自由だった。いざとなったら、皆のすがりつく腕を平然と振り払って、どこにでも行っちゃうようなヤツだって、私はいつも感じてた。
 どんな深い愛情も、執着も、結局は幽助を縛りつけることができない。幽助を縛りつけるものがあるとしたら、それは幽助自身の“業”だけだと思う。
 どんなにつらくても、疲れていても、立ち止まって満足することができない。立ち止まっていることが、走ることよりも苦しい。100mを走るスピードで、マラソンをするようなマネをしている時にこそ充足感をおぼえる。
 そんな、幽助の“業”こそが、幽助をもっとも縛り付けているんだと、私は思う。
 「考えるまでもねー」って言って、魔界から人間界に戻ってきたくせに(その時は多分、本気でそう思っていたんだろうけど)、平穏な生活を取り戻した途端に、うつろな目をしてボーッとしちゃうような自分を、幽助はどう思ってたんだろうね(「ちょっともの足りねーだけさ」とか言ってたけど、あれって「ちょっと」というレベルには見えなかったよねぇ)。
 わざわざ幻海師範とこに相談しに行っちゃうくらいだから(ついでに黒呼さんのところにも足を運んでる)、自分のそういうわざわざ地雷を踏みに行くような性癖を、問題アリと受け止めていたんだろうな。
 でも、結局のところ、幽助はやっぱり立ち止まれない。どっちにいたところで物足りないのなら、両方の世界をかけずりまわる。螢子ちゃんのそばで落ち着きたい気持ちとかも少しぐらいはあったんじゃないかな、と思うんだけどね……それができないあたりが、幽助の業の深いところだよねぇ。


 考えてみれば、幽助は物語中、常に流され続けていた。,
 幽助がみずからの意志で、何かを得るために闘ったというのは、実際にはほとんどなくって、流されるまま、巻き込まれるまま、幽助は闘い続けた。
 目の前の敵を倒すことにやっきになり、その闘いの後のことなんか考えもしていなかった。
 幽助ってのは、結局のところ、天上天下唯我独尊的な存在で、究極にエゴイストで、とにかく目先の自分の欲望を満足させることしか考えてない。
 まあ、欲望と言っても、螢子ちゃんを助けたいとか、幻海師範を殺した戸愚呂が許せないとかいう、道徳的(本当か?)なものから、もう目の前にいる仙水が気に入らなくてしょうがないからぶちのめしてやりたいという、目先の怒りを爆発させてるだけのものまで、いろいろだけどね。
 で、その反面、幽助というのは、むちゃくちゃ無邪気な子だと思う。
 無邪気……文字通り“邪気がない”ってことなんだけどね。一体、“邪気”ってどういうことなのか、というと、とりあえず「他者に対して悪意がない」という意味(ここで、“悪意”とは何か、とツッこまないでください。話が終わらなくなります)。
 幽助って悪意を持って、他者と接することがないよねぇ。「闘いたい」という気持ちはあっても、「傷つけたい」とか「おとしめたい」という気持ちがないというか……。,
 必要とあらば人を踏みつけにするだろうし、知らないで踏みつけにしてることもあるだろうけど、意図的に踏みつけにするということは、絶対にしない子だと思う。踏みつけにしたいと思うほど、他人に興味を持ってない、ってこともあるかもしれないけど。
 自分と他人を比べるってことがないんだよね(自己中心的だから(笑))。人をうらやむとか、人のものを欲しがるとか、自分の境遇を嘆くとかってことがないし……価値基準が常に自分の中にだけ存在してるってことなのかなあ。


 私がね、初めて幽助をコワイと思ったのは、暗黒武術会の決勝戦で、「あんたの全てを壊して、オレが勝つ」と、戸愚呂に向かって宣言した時だった。
 幽助は、「殺す」ではなく「壊す」と言った。それが、コワイと思った。
 幽助は戸愚呂を殺したかったのではなく、壊したかったのだ。なんとしてでも。
 多分、幽助は戸愚呂と同じ墓穴(?)にはまりかけている自分に気づいていたんだと思う。
 だから、幽助は戸愚呂を壊さなけりやならなかった。殺すだけじゃ足りない。壊さなければならない。死体ではなく、スクラップにしなければならない。そこまでしなければ……自分の正しさを自分自身に対して証明してやらなければ、戸愚呂と同じ穴にいつかすっぽりとはまってしまうかもしれない自分のあやうさとか脆さを、幽助は初めてこの時、自覚したんだと思う。
 で、その次に幽助をコワイ(というかイッちゃってる)と思ったのは、死にかけの仙水に向かって「痛み止め打ってでもオレと戦え!!」とわめいた時だったね。
 桑原くんに同感……ホントに鬼のような発言だわ。描かれていなかったけど、樹さんてばあの幽助をどんな顔して見てたんだろう。
 それで、最後に幽助をコワイと思ったのは、餓死寸前の雷禅さまに向かって、「人間しか食えねェってなら、オレが2、3人かっさらってきてやるよ」と言った時だったなあ……。
 なんとゆーか……雷禅さまが人間しか食べられないというのは、生物的な問題で、それで生きるために人間を食べるのは仕方がないことだと思う。そして、雷禅さまを生かしたい、弱っていく雷禅さまを黙って見ていられないという幽助の気持ちはすごく当然のことだと思う。だけどね、それを実行にうつしたらコワイだろうと思うのよ(まあ、そういうコトやって、食べてくれるんなら、とっくの昔に北神さんたちがやってるだろうけどね)。
 あの幽助の台詞はね、黒呼さんの「人間を食べた妖怪を目の前にして、それを“食事”と割り切れてしまうキミは、もう人間界の住人じゃない気がする」という台詞に、対応してるんだと思う。
 人間を食べることを黙認するどころか、自分からすすめてしまっている幽助は、もう完全に人間と魔族(妖怪)を区別しなくなっていて、生物的にはもちろん精神的にも、“純粋な人間”ではなくなってしまっているんだなあ……と、しみじみと思っちゃったりするわけだ。
 自分がやる、と言った以上、幽助なら本気で実行すると思う。で、後悔もしないと思うね(幻海師範が戸愚呂に殺された時と、暗黒武術会の決勝戦で桑原くんに死なれた時以外で、幽助が真剣に後悔しているところを見たことがない)。
 だけど、それでも人間の部分が幽助の中に残っている以上、幽助が人間を殺すのはやっぱりタブーでしょう。そこまで幽助、人間を捨ててるわけじゃないでしょう。神谷みたいな男でさえ殺すのをためらった幽助が、完全に消え去ったわけではないでしょう。
 だけど、そこらへんのことをぶっちぎってでも、雷禅さまの力を甦らせたいと願った、幽助のその気性の激しさがね。すっごいコワイと思う(気性の激しさは食脱医師さんゆずりと、雷禅さまが言ってるしねぇ)。


 桑原くんと出会う以前の幽助ってのは、温子さんと螢子ちゃんが世界のすべてだったような感がある。あのふたりだけが味方で、それ以外は全部、敵対視していたような(竹センは味方だったな)、むっちゃくちゃ内向きな子供だったんだよ、幽助は。
 その幽助がさ……一度、死んで、生き返って、なんかむっちゃ前向きになったよね……。ふっきれたというか、悟りを開いたというか、自分が生きていくことに対する価値を認めたというか。
 どこらへんで、自分が生きることに意味を見いだしたのかと言えば、おそらくは螢子ちゃんが命がけで自分の肉体を守ろうとしてたり、温子さんが自分のためにボロボロにもろくなってたり、桑原くんが今にも憤死しそうな勢いで怒ってくれたりで、そういうふうにして、自分に対して、一体、どれくらいの愛情が注がれていたかを客観的にみせつけられて、それでようやく、生きていてもいなくても同じなんてことはなくって、自分が生きているというだけのことを、ものすごくありがたがってくれる人がいるんだなってことがわかって、それでようやく、自分自身に対して、生きることを許せるようになったんじゃないかと思う。
 自分は生き延びるに値する存在であるのか、という命題を、幽助は14歳にしてクリアしたんだよね。
 それからの幽助は、ふっきれすぎちゃって、生きる力ありあまってる(苦笑)。
 ものすごくおおげさな比喩だけど、通りすがりの星を自分の重力場にひきずりこんで、自分のまわりをまわる惑星にしちゃって手放さない太陽みたい(本当に大げさだぞ)。
 このふっきれぶりが、蔵馬とか飛影ちゃんにはたまらないんだろうな、って思う。
 幽助ってのは、すごくむずかしい問題があって、いくら考えても何を調べても答えがわかんなくって、答案用紙を目の前にしてうなっていたら、いきなり横から手を伸ばして用紙をビリビリに破いちゃって、それで「こんな問題、解いてないで、どっか遊びにいかねぇ?」とか言ってくれちゃいそうな子なんだよね(代わりに問題を解いてくれるとか、一緒に考えてくれるとかいうキャラクターではないと思う)。
 それで、蔵馬は「それはいいですね」とか言って喜んでついてっちゃって、飛影ちゃんは「それでいいのか? 本当にそれですまされるのか?」とか悩んでるうちにひきずられてっちゃうタイプだと思う(ひどい例えだな)。
 幽助ってのは、そういう、問題を解決するんじゃなくって、問題そのものを消してしまう存在のような気が私にはしてて、そこらへんがすごい快感なんだと思う。


 温子母さんと螢子ちゃんに育てられて、中学に入って、桑原くんという親友ができて、一度、死んじゃって、蔵馬と飛影ちゃんという仲間を得て、幻海師範という人生の師にめぐりあって、戸愚呂という巨大な敵(あの当時は巨大だったのだ!)にケンカではなく闘うことを強要されて、その闘いの中で自分が進むべき道を定めて、仙水という悪意ばかりの男(この表現はかなり私の悪意が含まれているかもしれない(苦笑))に殺されて、魔族として甦って、魔界という新しいフィールドの中で解放されて、純粋に強くなることを求めて、もしかしたら一生の中で一番、自由で楽しくて充実した時間を過ごして、もっとも巨大なライバルである父・雷禅に死なれて、いきなり魔界の歴史の大きなターニングポイントに立たされて、だけど、大問題も単なる思いつきで決着つけちゃって、とりあえず魔界と人間界の共存共栄の道を切り開いた……というのが、おっそろしく簡略化した幽助の16歳までの人生。
 う一ん……こうやって書いてみると、なんともめまぐるしい人生だな、幽助(苦笑)。
 その『幽遊白書』の連載中、私は幽助に“進化”を望んでいた。
 どんどん強くなって、どんどん輝いて、たくさんの者に愛されて、脇目もふらず、ただ心の赴くままに、まっすぐに前進していく幽助が、私は好きだった。
 だけど、どんどん強くなって、幽助は何を得るんだろう?
 ただ、新しい敵を得て、新しい戦いを得て……それにどれほどの意味があるんだろう?
 あれは本当に、幽助がなりたかった幽助なんだろうか? あれは本当に私が望んだ幽助だったんだろうか? 私は本当は幽助になにを望んでいたんだろうか?
 この疑問にたどりついた時のショックというのは、思い返してみれば、『よしリンでポン』を読んで、『幽遊白書』の連載を続けることで冨樫先生がどれほど苦しんだかを知った時のショックと同質のもので、要するに、自分がいかに安易に他者に過酷なことを要求していたか、ということに対する罪悪感と怒りに、「こんなこと気づかなきゃよかった」という後悔がないまぜになって、さらにそういう事態になってなお、「それでも、やっぱり私は幽助に“進化”して欲しかったし、『幽遊白書』も終わって欲しくなかった」と思った自分の強欲さかげんにあきれた……という、ひじょうに矛盾だらけではあるけれども、私なりにかなり正直で真剣な感情のぶつかりあいがあって、混乱おこした結果のショックなわけで……おそらくこれは、私にとって一生、決着のつかない問題になるだろう。
 樹さんが遺した、「お前らはまた別の敵を見つけ、戦い続けるがいい」という台詞が、幽助たちではなく、読み手である私に向けられているような感じがして、すごくグサグサくる。
 私はさ……幽助に新しい敵をみつけて欲しかったのかな……。なんか、考えてると、暗くなるばっかりだな……ヤだな……。
 いずれにせよ、幽助が完全に歩みを止めた形で、『幽遊白書』の物語は幕を閉じた。
 幽助が螢子ちゃんのために生き返ろうと決意した時点で始まった『幽遊白書』の物語は、幽助が螢子ちゃんの元に戻り幕を閉じた。
 あれだけの大きな事件を経て、強大な力を持つ凶器となった幽助は、おとなしく元の鞘におさまるという形で、みずからの力を封じてしまったわけで、そのラストに私は深く安堵し……その反面、「では、幽助は何のために強くなったんだろう」という不満を感じたのだが、結局のところ、幽助に対してどこまでもないものねだりな私は、おそらくはどういうラストになっても、不満を感じたに違いない(幽助と飛影ちゃんが手に手をとってどこかへ旅立つ、とかいうラストだったら不満はなかったかも……って……我ながらイッちゃってるぞ(苦笑))。


 『幽遊白書』は“幽助の物語”だった。
 幽助は最初から、『幽遊白書』の物語世界に唯一君臨する神様だった。
 どんどん強大になっていくみずからの力を、幽助自身がおそれることをしなかったのは、それが本来、幽助が持っていて当然の力だったからなんじゃないかと思う。
 あの無邪気で無垢な神様は、世界をぶち壊せるほどの力を得たあげくに、ただの人間に戻っていったけれど、それが幽助の真の望みだったかどうかはわからない。多分、誰にもわからない(冨樫先生にもわかっていなかったんだろうと思う)。
 今となっては、ただただ、幽助が幸せに平穏に、そして元気に生きているんだ、と自分に思いこませるしかないんである(弱気な結論だな……)。

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