紅(あか)の契約


闇の底で想い続けているから
貴方は天上で微笑んでいて


 彼を初めて見たのは、涼やかな風の吹く初秋の頃だった。
 夕焼けがやけに綺麗だったその日、おれは学校帰りに身の程知らずな妖怪二匹にからまれ、打ち捨てられた工事現場でそいつらと闘った。
 十分程でケリはつき、おれは肉塊となった妖怪どもをつま先で蹴とばした。
 どうしてこいつらは、力の差が歴然としている相手に挑みかかってくるのだろう。まったく……これだから妖怪どもは始末におえない。
 小さく吐息をもらすと、背後で拍手の音が聞こえた。
 驚いて振り向くと、視界に長身の人影が映り、おれはおもわず後ずさる。
 馬鹿な……近づく気配なんて、微塵も感じなかったのに……。
「お見事。報告以上の力だ」
 彼は拍手する手を止めると、そう言って笑った。
 さらさらとした栗色の髪と純白の衣服を秋風にあずけ佇む正体不明のその人物は、淡い色した瞳から、すべての闇をみはるかすような鋭くてやさしい視線を、おれに投げかけている。
 彼は人間でも妖怪でもない不思議な『気』――霊気ではあるけれど、なぜか異質な気配がするのだ――を発しながら、ゆったりとした足取りで歩み寄ってきた。
「霊界探偵を任ずるに不足はないな」
「霊界探偵?」
「ああ、そうだ」
 彼はうなずくと、すっと右手を差し出した。
「ワシはコエンマという。よろしくな、仙水忍」
「なぜ、おれの名前を?」
「おまえのことならなんでも知っているぞ。年齢も、どこに住んでいるのかも、その強すぎる霊力ゆえに妖怪どもに付け狙われていることもな」
「そんなことまで?」
 おれはおもわず眉をひそめ、コエンマを凝視してしまった。
 そんなおれを見て、コエンマが苦笑する。
 一分のすきもないような整いすぎた顔だちが、一瞬にして人好きのする邪気のないものに変化したことに、おれは驚いてしまった。
「混乱する気持ちはわかるが、この手をどうにかしてくれんか? それとも、挨拶の握手もしてもらえんほど、ワシは警戒されとるのか?」
「えっ? ……あっ……すみません」
 おれは間の抜けたことに、その時ようやく、コエンマが差し出した右手の意味に気づいたのだった。
 あわてて右手を差し出し、またあわててひっこめ、隠すようにして背にまわす。
 その挙動の理由を、コエンマはすぐに察したようだった。
「かまわん」
 コエンマはそう言うと、その綺麗な手を伸ばし、強引におれと握手をした。
 ほっそりとした白い指先に、先程の闘いでおれの手にこびりついてしまった妖怪どもの赤黒い血が付着する。
「すみません」
 おれはうつむいてしまった。
 こんなに綺麗な手を、あんなろくでもない妖怪の血なんかで、汚したくはなかったのに……。
「かまわんと言っておる。これはおまえの手なのだろう?」
「それは……そうですけど……」
「汚れておったのは奴らの方だ、おまえではない。ならば、この手も汚れてはおらん。おまえが気に病むことはない」
 その言葉に、おれはおもわず顔をあげた。
 なんだか……物心ついた時から、おれが真に欲しがっていた言葉を、はじめてもらったような気がする。
「で、先程の話の続きだが」
 コエンマは軽く呟払いをすると、話題を唐突に変えた。
「ワシは霊界の閻魔大王の息子で、霊界捜査部で仕事をしておるんだが」
「霊界?」
「ああ、霊界や閻魔大王の名ぐらいはおまえも知っておるだろう?」
「はい」
「で、霊界捜査部というのは、いわば人間界の監視役だ。妖怪の人間に対する犯罪を取り締まっておる。だが、ずっと霊界探偵として霊界に協力してくれていた霊能力者が、つい最近、結婚を機に引退してしまってな。その後任者を探しておったところだ」
「霊界探偵?」
「そうだ。主な仕事は妖怪退治だな。今のおまえがやっているようなことだ」
「それを……おれに?」
「まぁ、早い話がそういうことだ。どうだ……引き受けてくれんか?」
 コエンマは澄み切った瞳で、おれを凝視した。
 心の奥底までをも見透かすことができるようなそのまなざしがなんとなく怖くて、さりげなく視線をはずす。
「報酬は?」
 そんな質問が口をついてでた。
 コエンマがうーんとうなり、空を仰ぎ見る。
 その仕草がやけに子供っぽくって、おれは吹き出しそうになった。
「そうだな……おまえの欲しいものを言ってみろ。それがおまえにふさわしい価値を持つものなら、それをくれてやろう」
「……時間を……くれませんか?」
「よかろう。その気になったら、いつでもいい。ワシの名を呼べ」
「わかりました」
 おれがそう答えると、コエンマは待ってるぞ、と言い残し、すっと姿を消してしまった。
 その場に残ったのは、おれと妖怪の死骸と心地好く吹く秋の風だけ。
 今のは……夢だったのだろうか……。
 一瞬、そんなことを考えてしまったが、右手にはしっかりと、あのやさしくて暖かい手の感触が残っていた。


 コエンマと出会ってから三日後の日曜日。おれは久しぶりに繁華街の雑踏にまぎれこんでいた。
 いつもは『気』がうっとうしくて、こんなに人が多いところには来ないのだが、珍しく人恋しくなっていたらしい。
 脇を駆け抜けていく子供たち。すれ違う幸せそうな恋人たち。ウィンドウのドレスを憧れのまなざしでみつめる少女たち。つまらなそうな表情で何事かを話し合っている少年たち。
 これだけたくさんの人間がいるのに、おれだけが違う。
 なぜ、おれだけが特別なんだ?
 なぜ、おれだけが妖怪どもと血を流して闘わなければならない?
 なぜ、こんな特殊な能力を持って生まれてしまったのだ?
 そんな考えてもどうしようもないことを考えながら、うつむきがちに歩いていたら、なんだかいらついてきて、何の気なしに足もとの石を蹴っとばした。
 その一瞬後、カシャーンという甲高い音が響きわたり、小さな悲鳴がそれに続く。
 驚いて顔をあげたら、道ばたのアクセサリー売りがおれをにらみつけていた。
「おい! 人の店に石を蹴りこむんじゃねぇよ」
 どうやら、おれが蹴った石が商品の中にとびこんでしまったらしい。
「すみません」
 おれは駆け寄り、謝った。
 ピンクの髪をしたアクセサリー売りは、ブツブツ言いながら、商品を並べ直している。
 せめてものお詫びにと、並べ直しを手伝っていたら、真っ赤なピアスが目にとまった。
 ごくごく平凡な、小さな球形の血の色したそのピアスが……なぜかひどく気になる。
 おれはおもわずそれを手にとり凝視していたが、ふと感じた気配に顔をあげると、興味深げな表情のアクセサリー売りと視線があってしまった。
「あっ……その……」
 おもわず口ごもってしまったおれに、アクセサリー売りが意味深な笑みを向ける。
「それが気に入ったのか?」
「あの……これ、言い値で買います。いくらですか?」
 なんとなくバツが悪くなってしまって、あわててそう言うと、ポケットから財布を取り出す。
「言い値?」
「はい。ご迷惑をかけてしまったお詫びに」
 おれの言葉に、アクセサリー売りはニッコリと笑った。
「百円」
「えっ?」
「百円だ。それは」
「けれど……」
 おれは値札に目をやった。やはり記憶違いではない。しっかりと『ピアス、どれでも一個、五百円』と書いてある。
 それがなぜ百円になるんだ? 千円になるのならともかく……。
「そんなに真剣な顔でうちのピアスを見るやつは初めて見た。だから、百円だ」
「そんなに真剣でしたか?」
「ああ、おまえの視線でピアスが壊れるんじゃないかと思ったぜ」
「そうですか」
 説明になっているのかいないのかよくわからない説明に、おれはなぜか深く納得して、百円玉をアクセサリー売りに手渡した。
 彼はまたまたニッコリと笑うと、うれしそうに百円玉を受け取ってくれた。


 自室の大きめのクッションに腰かけ、おれはてのひらの上の血の色をしたピアスを飽きることなくみつめていた。
 紅――この色はきっと、おれがこの能力を持ち続ける限り、おれにつきまとい続けることだろう。
 ならば、いっそのこと、あのいまいましい妖怪どもと正面きって闘うのもいいかもしれない。振り回されるのはもうたくさんだ。かかる火の粉を振り払うばかりでは埒があかない。火の元を断たなければ……。
 それに……おれの価値なんて、案外、百円程度のものかもしれない。
「コエンマさま」
 何もない空間に向かって呼びかけると、コエンマは音もたてずにその場に現れた。
「欲しいものがみつかったか?」
 尋ねるコエンマに、おれはてのひらにのせたピアスを見せた。
「代金は立て替えておきました」
 コエンマはピアスを珍しいものでも見るような目つきで凝視する。
「ピアス? こんなものが欲しいのか? 見たところ、ただのガラス玉のようだが」
「これが欲しいんです」
「おもしろいヤツだな……値段は?」
「百円」
「百円?」
 コエンマがギョッとしたような表情を見せる。
 おれもあのアクセサリー売りにこんな表情をしてみせたのかと思ったら、みょうにおかしくなってしまった。
「おまえは、自分に百円の値をつけたのか?」
「そうです」
「……おまえがそれで満足だというのなら、それもいいだろう」
 コエンマはかすかなため息をつくと、すっと姿を消した。そして、その数秒後に再び現れ、おれのてのひらに百円玉をのせる。
 てのひらの上の、血の色のピアスと百円玉。
 幼い頃に、おやつを買え、と親が握らせてくれた百円玉と同じ、やさしい感触がした。
「近いうちに最初の指令を出すことになる。その時は頼むぞ」
 様々な細かい説明を終えたコエンマが、そう言って姿を消そうとした時、おれはおもわず彼を呼び止めてしまった。
「待ってください」
「なんだ?」
 問いかけられ、わずかに逡巡した後に、ふいにひらめいた思いつきを口にしてみる。
「ピアス穴を……開けてくれませんか?」
「ピアス穴?」
 コエンマは眉をひそめると、おれの耳に視線を投げた。
「ピアス穴も開けてないのにピアスを欲しがったのか、おまえは」
「たまたま欲しくなったのがピアスだったんです。おれはアクセサリーとかは好きじゃありません」
「……おもしろいやつだな」
 コエンマはくすりと笑うと、おれの耳に手をやった。
 やはり、感じたこともないような清浄な『気』を感じる。
 力強くて――どこまでも透き通っている。
 『気』がやさしすぎて、触れる指先が暖かすぎて――なんだか、泣きたくなってきてしまった。
「少しチクリとするかもしれんぞ」
 コエンマはそう警告したが、シュッというかすかな音はしたものの、痛みは感じなかった。
「ほれ、穴は開けてやったぞ。血も出てないし、化膿することもないはずだ。……そうだ、ついでにピアスをつけてやろう」
 コエンマは繊細な手つきでおれのてのひらからピアスをつまみあげ、両方の耳に丁重にピアスをとりつけてくれた。
 そして、二、三歩ほど後ずさり、しげしげとおれをみつめる。
「ふむ。結構、似合うな」
「そうですか?」
「ああ。ワシはお世辞は言わんぞ」
「では、これで契約成立ですね。これからはおれを好きなだけこき使ってください」
「おっ、その言葉、忘れるでないぞ」
 そう言って口許をほころばせ、おれの耳に飾られたピアスを人さし指でそっとはじくと、今度こそコエンマは姿を消した。


 一人になった部屋で鏡をのぞきこみながら、両の耳についたピアスに手をやる。
 せきとめられていた涙が、その時、ようやくあふれ出てきた。
 これからも、血を流し続ける。
 いつまでもいくらでも、流し続ける。
 だけど、もうおれは自分だけのためには闘わない。
 あの人はきっと、血にまみれたおれに「よくやってくれたな」と言ってくれる。血にまみれた手を握りしめてくれる。おれがその期待を裏切らない限りは、決しておれを裏切らない。
 そんな言葉を聞くためだけに、その暖かい手に触れるためだけに、あの人に必要とされ続けるためだけに……おれは闘い続けることができるはずだ。
 それがうれしくて……おれは泣き続けた。

おわり

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