薔薇園にて


キミはバラよりウツクシイ


 暗黒武術会の決勝戦において、吐愚呂が倒れ、浦飯幽助が立ち上がったその瞬間、部屋中の空気が凍りついた。
「吐愚呂さまが……負けた……」
 陰魔鬼の口からもれ出たつぶやきが、時の流れだけは凍りついたりしないことを示した。
 魅由鬼は顔をこわばらせたまま画面を凝視していたが、ふいにすっくと立ち上がると、荒々しい足音をたてて部屋を出ていってしまった。
「魅由鬼!」
 陰魔鬼の制止の声も、その耳にはまったく届いていない。
 彼らの主人であった吐愚呂兄弟は、先年の暗黒武術会の優勝者であり、無敵を誇る妖怪だった。
 その彼らが浦飯チームとの戦いに敗れ、死んだ。
 負けるはずのない吐愚呂兄弟が、たかだか人間と戦い、負けてしまったのだ。絶対的な支配者を失った魅由鬼や陰魔鬼の動揺は大きい。
 陰魔鬼は深いため息をつくと、再び画面に目をやった。
 彼らの主人の死を伝えてくれた画面は、今はただ、もうもうと立ち込める砂塵を映すだけたった。


 陰魔鬼が庭の薔薇園の真ん中にうずくまっている魅由鬼をみつけたのは、太陽の最後の残り火が西の空のはしを染める頃たった。
 この薔薇園は、薔薇が大好きな魅由鬼を喜ばせるために、陰魔鬼がつくったものだ。
 薔薇を綺麗に咲かせるには大変な手間が必要だが、陰魔鬼は魅由鬼の満足そうな笑みみたさに、毎日その手入れに励んでいる。
 魅由鬼はそれに関しては何も言わないが、ことあるごとにこの場所に足を運ぶところをみると、かなり気に入ってくれているようだ。
「魅由鬼」
 陰魔鬼はよびかけたが、魅由鬼はその存在にも気づかぬ様子で、じっと薔薇をみつめている。
「もう……陽が暮れるよ。家に入ろう。夜はまだ寒いよ」
 陰魔鬼はできるだけ明るい調子で言ったのだが、魅由鬼は無表情のまま、身動き一つしようとはしない。
「魅由鬼……何をしても、吐愚呂さまは生き返らないよ」
 陰魔鬼はポツリとつぶやいた。
 魅由鬼に聞かせるためのものではなかったその言葉は、魅由鬼の中のなにかを動かしたようだった。
「……なぜ……なぜ、吐愚呂さまがあんな人間に負けるんだ?」
 凍りついたように動かなかった魅由鬼の唇から、ようやく言葉がすべりおちた。
 けれど、その声音は震え上がるほどに冷たい。
「吐愚呂さまは強いのよ! 誰が相手でも負けるはずはないのよ!」
 圧縮されていた想いが一気に放出される。陰魔鬼はその妖気に圧倒されるばかりたった。
 身体中がきしんでいる。呼吸が苦しくなってくる。けれど陰魔鬼は黙ってそれに耐えていた。今の自分にできることといえば、ただ黙って魅由鬼の憤りと哀しみを受け止めることぐらいだから。
 魅由鬼は誰の指図も受けない。魅由鬼に命令を下すことができるのは、吐愚呂兄弟だけだった。
 陰魔鬼にとって魅由鬼が絶対の存在であるように、魅由鬼にとって吐愚呂兄弟の存在は絶対だった。
 けれど、その存在が崩壊してしまった今、魅由鬼は何を信じればよいのか。
「答えなさいよ、陰魔鬼。なぜ、吐愚呂さまが負けるのよ」
 魅由鬼の瞳が怒りに燃え上がる。そして、それに反してその声は凍りついているのだ。
 陰魔鬼はわずかに目を伏せたが、意を決して魅由鬼のまなざしをまっすぐに受け止めると、いつにない強い調子で言葉を切り出した。
「吐愚呂さまが浦飯よりも弱かったからだよ」
「陰魔鬼!」
「浦飯の方が強かったから、吐愚呂さまは負けたんたよ、魅由鬼」
「陰魔鬼、吐愚呂さまの悪口は……」
「認めなくちゃいけないよ、魅由鬼。弱いから負けるんだよ。弱いから殺されるんだよ。それってあたりまえのことだろ」
 陰魔鬼は吐き捨てるように言った。
 吐愚呂兄弟を失った絶望を、吐愚呂兄弟への失望に変えてしまえばいい。魅由鬼は誰かのためになんか泣いちゃいけない。
「陰魔鬼。それ以上、言うと……」
「言うと?」
 魅由鬼の震え上がるほどの殺気にも、ひるむ様子を見せない陰魔鬼は、今までに見せたこともないような強硬な態度を見せている。
「殺すわ」
 魅由鬼の紅い唇からそんな言葉がこぼれ落ちるのを見るのは、快感だった。よくもここまで魅由鬼にいかれたものだと思う。
 陰魔鬼は満面の笑みを浮かべた。
「いいよ」
 いともあっさりと答えた陰魔鬼を、魅由鬼がけげんそうにみつめる。
「陰魔鬼?」
「殺してもいいよ」
「……」
「おれは魅由鬼よりも弱いから、魅由鬼はおれを殺してもいいんだよ」
「……陰……魔鬼……」
 魅由鬼の怒気がみるみるうちに沈んでいく。
 陰魔鬼はただまっすぐに魅由鬼をみつめている。
 陰魔鬼はいつもそうだ。
 おどおどしているように見えて、いつも痛いほどの視線をぶつけてくる。
 それに含まれているものが殺気ならばいいのだ。そんな視線には慣れている。
 けれど陰魔鬼のそれは違う。だから始末に困る。
「そんなに私に殺されたいの?」
「うん……そうだね」
 陰魔鬼が小さくうなずく。急にいつもの、おどおどとした陰魔鬼に逆戻りしてしまったようだ。
「何故?」
「吐愚呂さまを想って泣く魅由鬼は、見たくないんだ」
「何故?」
「魅由鬼が泣くのは嫌だし、その原因が吐愚呂さまっていうのも嫌だ」
「何故?」
「魅由鬼には笑っていて欲しいし……それに……知ってるだろ? おれは魅由鬼が好きなんだよ」
「それは知らなかったわ」
 うつむいたまま、魅由鬼の『何故』に答えていた陰魔鬼が、その声色に含まれた艶に驚いて顔をあげる。
「魅由鬼?」
「それは知らなかったわ」
 魅由鬼が同じ言葉を繰り返す。その漆黒の大きな瞳にわずかな笑みが浮かんでいる。
 知らないはずがないのに、そんなことを平然と言ってのける。
 そこらへんの行動があまりにも魅由鬼らしかったので、陰魔鬼はおもわず笑ってしまった。
 魅由鬼はそのままじっと陰魔鬼をみつめていたが、ふいにがくりとひざを落とすと、陰魔鬼のからたに覆い披さるようにして、抱きついてきた。
「み……魅由鬼?」
 陰魔鬼の声がうわずっている。
「今はまだ殺さない。だけど……私以外のものに、ほんのわずかでも心を傾けたら……殺すわ」
 魅由鬼の言葉に陰魔鬼は大きくうなずいた。
「うん、それでいいよ」
「いい? あなたがいなくなったら、薔薇の面倒をみる者がいなくなっちゃうから殺さないのよ」
「うん、わかってる」
「私、薔薇は好きだけど、面倒を見るのは大っ嫌いなんだからね」
「うん、知ってる」
「しかたないから、そばにおいてあげるんだからね」
「うん、もちろんだよ」
 陰魔鬼は魅由鬼の両肘にそっと腕をまわした。
 こんな時だから、これくらいの役得は許されるんじゃないかと思う。
 魅由鬼のからだには、薔薇を食べて生きているんじゃないかと思うほど、薔薇の香気が染み付いていた。
「魅由鬼は薔薇が好きなんであって、おれのことを好きなわけじゃないんだものね」
 魅由鬼は陰魔鬼の言葉にがばりと身をおこし、その場に正座したまま陰魔鬼を凝視していたが、ふいに腕組みをすると、ついとあごをそらし、そっぽを向いた。
「あたりまえよ」
 その声に含まれていたかすかな動揺に陰魔鬼は気づいたものか……。
「今日の陰魔鬼は少しおかしいわよ」
 立ち上がり、裾の汚れをはらっている魅由鬼が怒っているような口調でつぶやく。
「魅由鬼も少しおかしいから、ちょうどいいんたよ」
 陰魔鬼がそう言って微笑むのを見て、魅由鬼はぷいと横を向いた……が、その顔がみるみるうちに紅潮してきた。そして、その様子をみつめる陰魔鬼の顔が、それに反比例するように青ざめる。
 魅由鬼との長いつきあいで培われたなにかが、陰魔鬼の頭の中で警報を出しているのだ。
「陰魔鬼! ちょっと、ここ、葉っぱが白くなってるわよ」
「えっ?」
「ほら、見てみなさいよ、これ」
 魅由鬼は葉をむしり取ると、陰魔鬼につきつけた。
 見ると確かに葉が自くなっている。どうやら、病気にやられたものらしい。
「本当だ」
「いい? 陰魔鬼。明日の朝までに、白くなった葉は全部むしっておいてよ。わかってるわね」
「……う……ん……」
 魅由鬼のすごい剣幕に、陰魔鬼はおずおずとうなずいた。
「私はもう部屋に戻るわ。夜風は肌に悪いから」
 そう言って魅由鬼はすたすたと家に戻っていってしまった。
 魅由鬼を家に入れるという当初の目的を果たした陰魔鬼だったが、そのために自分が家に入れなくなってしまった。
 この広い薔薇園のすべての葉を一枚一枚、点検しなくてはならない。しかも、明日の朝までに。とてもじゃないが、眠ってなんていられない。
 陰魔鬼は大げさなため息をつくと、空を仰いだ。
 もう、とっくに太陽は沈みきり、美しい満月がその姿を誇示している。
 月は夜空の孤独な女王。魅由鬼はきっと月に似ている。手が届くことはないけれど、その姿をみつめることは許されるのだ。
「まあ……いいか……」
 陰魔鬼はそうつぶやくと、薔薇の葉の点検をはじめた。
 まだ夜は浅く、夜明けは遠い。
 魅由鬼の薔薇園は月光に照らされて、いつにも増して美しかった。

おわり

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