暴風警報発令中!!


「つまんないだ。つまんないだ。つまんないだよーっ!」
 魔界の森をそんなバカでかいおたけびが駆け抜け、それを間近で聞いていた鈴木と死々若丸と鈴駒(酎は棗のところへ出稽古中で留守にしている)は、耳を手でおさえながら打ち合わせをしたわけでもないのに同時に深いため息をついた。
「いいかげんにしろよ、陣」
 この十日間で何度この台詞を口にしただろうか、と頭のすみで考えながら鈴木が注意したが、それくらいのことで陣がおとなしくなるのなら、現在のようなうっとうしい状況は発生していないのである。
 三人はこの十日間のことを思いだし、さらにそれがあと十日も続くことに思い当たり、暗澹たる顔をつきあわせながらまた深いため息をついたのだった。


 ことのおこりは、十一日前の夜、凍矢が食事後に陣にこう告げたことだった。
「明日から新しい修業に入る」
 事務連絡的な凍矢の報告に、陣は興味を示した様子だった。
「修業? どんなやつだ?」
「二十日間、結界にこもって暝想をする」
「えーっ。なんで、そんなことするだよ」
「メンタルトレーニングだ。先日、蔵馬が来た時に教えてもらった方法を試してみようと思ってな」
 ぶすっとしている陣に、凍矢はそっけない説明をすると、食器をてばやく片付け、早々に自分の寝床にもぐりこんでしまった。
 置き去りにされたかっこうの陣は、くしゃくしゃと髪をかきまわす。
 凍矢が強くなるのは大歓迎だが、何かとっても気に入らないような感じがしているのは何故だろう。


 その翌日から凍矢は宣言通り結界にこもってしまった。
 誰にも暝想の邪魔をされぬようにと凍矢が鈴木に特注した、(製作者の言葉を信じるのなら)幽助にだって破れない強力な結界の中で、彼は飲まず食わず眠らず動かずの二十日間を過ごすのだ。
 無音の結界の中に、シンとした妖気が満ち、凍矢の瞳が静かに閉じられる。
 そのおごそかな雰囲気に陣でさえもが息をのんだが、彼のそんな殊勝さは一日ともたなかった。
 まず最初に陣がぶちあたった問題は食事だった。
 陣だとて魔忍として厳しい修練を積んでいるのだから、もちろん自分の食事の面倒が自分でみられないわけはない。……が、はっきり言ってマズイのである。で、そのマズさに腹がたってしかたがないのである。
 『衣食住』の中で陣がこだわるのは『食』だけだから、それに不満があると生活全般に調子がでない。それに、わけのわからないモヤモヤまで加わって、陣はかつてないほどのいらだちに耐えかね、空に向かってらちもないおたけびをあげることになってしまったのである。
 そして、その不調は改善されるどころか沈殿していき、凍矢がこもってから十三日目には、鈴木との組手でボロ負けするという惨事を招いた。
「その……大丈夫……か?」
 珍しく遠慮がちに鈴木が尋ねると、肩やひざから血を流したまま、あおむけに寝っころがって、空を凝視していた陣は、むくりと上体を起こした。
「水を浴びてくるだ」
 陣の機嫌は最悪のようだったが、そこで勝負で負けたばかりの相手に当たり散らせるようなタイプではなく、そんなことを言い置いてブンと飛んでいってしまう以外に、陣にとれる行動はなかったらしい。
「あんな顔は初めて見たな」
 感心したような口調で、置いてけぼりをくらった鈴木がつぶやく。
 ふてくされているような、怒っているような、憤っているような、ちょっとばかり淋しそうな……そんな表情だった。
「今さらだが……凍矢ってすごいヤツだったんだな」
 鈴木のつぶやきを凍矢が聞いていたら、きっと何も言わずに苦笑していたことだろう。


 彼らが定住している山のふもとには、魔界には珍しい澄んだ水をたたえた湖がある。この湖が気に入っているのは凍矢で、一日に一度はここで水浴をしており、陣もたまにつきあっているのだが、一人っきりでここに来るのは初めてだった。
 水に飛び込むと、さきほど負った傷にしみて痛いが、それよりもさきほどの無様な負けっぷりの方がよっぽど心にしみて痛い。
「凍矢には見せられないだな……」
 なんとなく、そんな弱音らしき言葉をもらしてしまったことが気に入らなかった陣は、ブルブルと首を左右に振り、水滴と一緒に自分の弱気を散らそうとした。
 親しくなったきっかけも憶えてはいないけれど、気がつけば凍矢はいつも一番近い場所にいて、どんな時でも自分の気持ちを正確に理解してくれる。それは当然のことだけれど、それに甘えるだけではろくでもないことになる。
「凍矢は強くなるためにがんばってるだ! おれもがんばって妖力値をあげて凍矢に自慢するだよ!」
 そう声に出して自分を励まし、うんうんと大きくうなずく。傍で見ていればまったく馬鹿馬鹿しいことだろうが、おかげで少し元気が出てきた。
「よーっし、雪辱戦を挑みに行くべ」
 空に向かって宣言し、水からあがろうとした陣の感覚に、ふいに何かがひっかかった。
「?」
 気配のする方に視線を動かすと、湖畔で妖怪が何事かをやっている。
「何やってるだ」
 興味を抱いて近寄り声をかけると、妖怪は不審そうに陣をみつめた。
「ここで泳ごうと思ってるだけだぜ」
「そうだべか。ここの水はきれいだからな」
「ああ。だから気持ち悪くてよ。これから泳ぎやすく変えようとしてんだ」
「へっ?」
 言われて陣は彼らの足元に置かれた壷をみやった。青黒いドロッとした感じの液体が入っている。
「これはもしかして……毒だべか?」
「おうっ、特製の濃縮液だぜ。これだけで、この湖全体を濁らせて魚一匹、棲めないようにしてやれる」
 どうやらこの妖怪、鈴木と同じ、自分の作品の解説に生きがいを感じるタイプらしく、実にうれしそうに楽しそうにしゃべっている……が、それがとんでもない災難を招くことになろうとは、かけらも思わなかったに違いない。
「この湖を汚すだべか?」
 陣の周囲の空気がふいに乱れた。
「あっ、ああ」
 鈍感なりになにかを感じたらしく、妖怪はわずかにたじろいだ。
「この湖に毒を流すだべか?」
 刃物で切り裂かれたように、妖怪の頬や腕の皮膚がスパッと切れた。
「ひっ……」
 うめいた時には、妖怪の足はすでに地面から離れている。
「凍矢の湖になんてことするだーっ!」
 一体、いつからそれが『凍矢の湖』という名になったのかは知らないが、とにかく陣にとってはこの湖は凍矢のものだった。この魔界のものとしては奇跡的に透明度が高い湖に、凍矢の淡い色した髪や瞳や肌はよく似合っていた。
 それなのに、その美しい湖をこんな青黒い毒で染めようだなんて、陣にとっては凍矢自身に毒をぶちまけられたようなものだったのだ。
「許さねぇだーっ!」
 怒りにまかせて高められた妖気が風を呼び、陣を中心に竜巻きが発生した。
 湖面は風にあおられ一部はへっこみ、それ以外の部分は高々と持ち上げられ水の壁をつくる。暴風は山の木々を薙ぎ倒し、その上に巻き上げられた水が派手な音をたてて落下し、土を削り取り、それを吸い込んだ結果、黄土色に染まって湖に舞い戻ってくる。
 そんな陣の暴走は、やつあたりと表現するにさしつかえのないものだったが、とにかく凍矢が暝想に入ってからの鬱屈が暴走した結果は凄じいもので、陣の怒りがおさまった頃には、あたりの風景がごっそり変化してしまっていた。
 ちなみに、ことの原因をつくった妖怪は、湖の藻屑となったか、どこかへ吹き飛ばされたかもさだかではない。
 そして、しばらくの後、きょとんとした表情で湖畔に立っている陣を、鈴木、死々若丸、鈴駒の三人が発見した。
「陣ーっ。なんてことすんだ、おまえはっ」
「はた迷惑もいいとこだぞっ」
「いくら凍矢がいないからって、こんなスネ方すんじゃねぇよっ」
 よってたかって怒る三人は、頭から水を浴びせられびしょ濡れである。おまけに、落ちてきた水の量がハンパではなかったから、重力に従って山を駆け降りてきた水の勢いもハンパではなく、それに巻き込まれたおかげであちこちボロボロだ。もうちょっと弱い妖怪だったら、きっと死んでいただろう。
「しまった……」
 陣は湖をみやり、ようやく重大なことに気づくと、頭を抱えた。
「湖を汚しちまっただよ。凍矢が見たらきっと怒るべ」
 そんな、あまりにも視野の狭い発言をした陣に、三人がかりの制裁が加えられたのは言うまでもない。


 その後、湖に浮かんだ枝や葉っぱといったごみの撤去作業や、山の崩れかけた部分の修復作業といった後始末を陣がいそいそとやっているうちに、期限の二十日間が過ぎて、凍矢の結界が自然消滅した。
「凍矢っ」
 ふらりと立ち上がった凍矢は、駆け寄ってきた陣を見て微笑すると、すぅっと前方に倒れ込み、あわてて差し出された陣の腕にもたれかかった。
「大丈夫だか?」
「すまない。さすがにちょっときつかったな」
「家まで連れていってやろうか?」
「いや、大丈夫だ。一人でも歩ける」
 小さい声だが口調は毅然としていて、陣はほっとした表情を見せたが、それも続けられた言葉によってあっけなく崩されてしまった。
「何か変わったことはあったか?」
「へっ?」
 凍矢の質問に、陣がわずかに顔をひきつらせる。それだけで凍矢は何かを察したようだった。
 ぐるりと周囲を見渡すと、他の連中は笑いを懸命にこらえている。それに、よく見ると見慣れたはずの山の風景が何となく……。
「陣」
 凍矢に短く呼びかけられただけで、陣がいたずらを発見された子供のような表情を見せた。
「山がずいぶんと削られているな。それに湖が濁っているような気がするんだが」
「そっ……その……ちょっと前に大きな竜巻きがここを通っただよ」
 陣は嘘はついていない……多分。
「そうか」
 凍矢は穏やかな表情でうなずくと、陣の瞳をのぞきこみニッコリと笑った。
「その竜巻きは、『陣』とかいう名前を持っていなかったか?」
「……………………」
 鋭い指摘におもわず大きなからだを縮こませた陣をみつめ、他の連中は心の中でこうつぶやいた。
 凍矢ってすごいヤツだったんだなぁ……、と。


 蛇足。
 後日、凍矢は鈴木に三十日間の暝想のための結界を依頼し立ち去ろうとした時に、ふと振り返り、苦笑しながらこう言った。
「ついでに、陣を三十日間、閉じ込める結界を注文しておいた方がいいのかな?」
 それは凍矢が珍しく口にした冗談だったが、鈴木は自分のためにそれをつくろうかと、真剣に考えこんでしまったのだった。

おわり

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