忘却の逆説(ボウキャクのパラドックス)


忘れてもいいよ 忘れないから
忘れなくてもいいよ 忘れるから


「おかえりなさい」
 自室のドアを開けると、やさしい声が出迎える。
 ベッドには包帯巻きにされている御手洗が横たわり、床にはこれまた包帯巻きの桑原が高いびきをかいているという、即席野戦病院状態の部屋の中で、病院長は椅子に腰掛け、いつもと変わらぬ優雅な笑みをたたえて幽助に視線を向けていた。
「ただいま」
「三人の様子はどうでした?」
 尋ねながら蔵馬が立ち上がって椅子をゆずろうとしたが、幽助はそれを手で制し、窓際に立った。
「うん。全然大丈夫。きれいさっぱり忘れてたぜ」
「そうですか」
 仙水がひきいる領域能力者たちと、幽助たちの争いに巻き込まれた、桐島、沢村、大久保の三人の記憶を、蔵馬は消去しようと言い、幽助もそれに賛成した。
 何も知らない方がいい。最初から、何の関係もない彼らを巻き込むべきではなかったのだから、何もなかったことにする。そうした方がいいと思っている。
 それでも……。
「記憶を消したことが気に入りませんか?」
 立っている幽助を少し上目遣いにみつめながら、蔵馬は問いかける。
 幽助は、なんでわかるかなあ、といった表情で顔をしかめた。
「んなこたねぇよ」
「いいんですよ。おれもそう思います。記憶は個人の歴史であり、誰も侵すことのできない領域であるべきです。それを他人が勝手に書き換えるなんてこと許されるわけがない」
「蔵馬……」
「けれど、その許されるべきではないことが、おれにはできるんです」
 蔵馬の表情も声も穏やかだ。
 それがなぜか痛々しかった。
「悪ぃな。おれにもそういうことができればな」
「いいえ。幽助にその能力があっても、貴方にはやらせませんよ。それはおれの仕事です」
 一片の迷いもなく蔵馬が断言したので、幽助はなんとなくむっとしてしまった。
 それは、つらい仕事を蔵馬に押しつけている自分に対する憤りからくるものと、わかっていながら、感情を抑えることができなかった。
「そんなこと、いつ誰が決めたよ」
「おれが自分で勝手に決めたんです。おれにできることは、全部、おれがやります。貴方は貴方にしかできないことだけ、やってください」
 蔵馬は静かな、だけど強いまなざしで幽助をみつめる。
 幽助はしばらくのにらみ合いのあとで、かすかなため息をついた。
 どうして自分の周りには、こんなに頑固一徹な者ばかりが集まるのだろう。
 なんでもホイホイと頼んだことをやってくれる蔵馬だけど、こうなると絶対に意見を曲げない。
「じゃあさ……」
「はい?」
「たとえば、おれが蔵馬のことを忘れた方がいいということになったら、おめぇはおれの記憶からてめぇの記憶を消せるのか?」
 幽助はかなり意地の悪い質問をとばした。
 だが、答えは瞬時に戻ってきた。
「消しますよ」
「そんな簡単に……」
 なんでもないことのように、蔵馬が表情も変えずにうなずいたので、幽助はおもわず絶句してしまった。
 「消せます」ではなく「消します」と蔵馬は言う。はやくも仮定ではなく決定事項になってしまっている。
 予想された答えではあったけれど、少しぐらいは悩んでくれてもよさそうなものではないか。
「なんで、迷うことがあるんです? おれを忘れることで、貴方が幸せになるのなら、喜んでおれの記憶なんか消去しますよ」
 幽助の思いを先取りして、蔵馬が解説を加える。
 蔵馬がそういう性格だということを、幽助は承知している。承知してはいるけれど……。
「おれに忘れられても平気なのかよ」
「そりゃあ、さびしいでしょうけど、おれはちゃんと貴方のことを憶えていますから。……それで十分です」
「……冷てぇな」
「そうかもしれませんね」
 幽助の恨み言を、蔵馬はさらりと受け流してしまった。
 そんなことないのに……蔵馬が冷たいなんてこと、あるわけがないのに……。
 幽助はうつむいて、しばらく黙り込んでいたが、ふいに顔をあげると、ニヤッと笑った。
 その笑みに蔵馬はおもわず身構える。
 経験上、幽助がこういう笑い方をする時は、だいたい、とんでもない行動をはじめる時と知っているのだ。
「決めたっ」
「何をです?」
「たとえそういうことになっても、おれは絶対におめぇのことを忘れねぇ」
 今度は蔵馬が絶句する番だった。
 忘れさせられても忘れない、というのは、言葉としても状況としても、かなりおかしい。
「もしかして、おれの力をみくびってますか?」
 気を取り直した蔵馬が微笑する。
「そんなことねぇよ。蔵馬の力は信用してる」
「なら、そんなことを決めても無駄ですよ。そうなった場合、貴方はその決意さえ忘れてしまうんですから」
「いいやっ! 決めたと言ったら決めた! 絶対に忘れねえ!」
 幽助が意気込んで言うので蔵馬は、彼にしてはめずらしく、声をたてて笑った。
 本当にこの人間は、根拠のないことを自信満々に言う。
「では、その時は勝負ということですね」
 蔵馬はひとまず話を打ち切った。
 これ以上、続けても幽助は絶対に折れないだろうし、実際にそういう状況が来るとは限らないのに、こんなことでもめててもしかたがない。
「まあ、結果はみえてますけど」
「そんなこたねぇ。おれは絶対に負けねぇぞ」
 なぜだかものすごくテンションをあげて、エイッと気合いを入れている幽助をみつめながら、蔵馬は微苦笑を浮かべた。
 あるかどうかもわからない勝負に、意気をあげている幽助が微笑ましい。
 何があっても忘れない、と言ってくれる幽助の気持ちをうれしく思う。
 それでも、それは絶対に負けられない勝負。
 幽助の害になるくらいなら、自分という存在を根こそぎこの世界から消し去ってしまいたいと思う。
 けれど、何があっても幽助に忘れられたくないと……自分なんかに操作されてしまうような幽助であって欲しくはないとも思う。
 いずれにせよ、自分は負けるしかないのだから、とりあえず今は、勝つことでも負けることでもなく、勝負の時が来ないことを祈ろうと、蔵馬は結論づけたのだった。

おわり

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