half wings


翼なんかなくても おれたちは空を飛べるから


 純白の羽根を大きく広げた幽助が目の前に舞い降りてきた時、もう駄目だ、と飛影は思った。
 なにが駄目なのかはわからない。
 なぜ、そんなことを考えてしまったのかもわからない。
 けれど、心の底から湧き上がってきたその想いは、否定することもかなわないほど、確たるものであったのだ。
 翼をたたむことなく自分をみつめ、いつもの屈託のない笑みを浮かべる幽助が、ひどく遠い存在に見える。
 手を伸ばせば……触れることはできる。
 けれど、今の飛影にそんなことをする勇気はなかった。
 不用意に手を伸ばしたら、幽助が翼をはためかせて大地を離れ、そのまま永久に空の住人になってしまうような気がしてしかたなかったのだ。
 これから、どうすればいいんだろう……。
 そんなことをぼんやりと考えてみる。
 そして、どうしてそんなことを考えるのか、と考えてみる。
 わかることはただひとつ……自分がひどくうろたえているということだけだ。
「どうしたんだ? 飛影」
 みずからの背に生える翼の存在を知らぬかのように、幽助自身はいつもとまったく変わりがない。
「別に」
 だから飛影はそう答えた。
 それ以外に答えようがなかった。
「ああ、この羽根に驚いてんのか? そりゃそーだろーな。おれも朝、起きたら背中がくすぐったいんでビックリしちまったぜ」
 背中に突然、生えてきた翼のことを、そんなふうにあっさりと笑いとばしてみせる――この無神経さが腹立たしい。
「おまえは脳天気でいいな」
 冷たい視線と言葉をぶつけられ、幽助が頬をふくらませる。
「おれのどこが脳天気なんだよ」
「背中にそんなもんを生やして、ビックリした、だけで話が終わるか? 普通」
「んなこと言ってもよぉ。生えちまったもんは仕方ねぇだろ。ひっこぬくわけにもいかねぇし」
「……ひっこぬけ」
 幽助の軽い口調に、飛影のボソリとしたつぶやきが重なる。
「えっ?」
「そんなものさっさとひっこぬいてしまえ。……なんならおれが斬り落としてやろうか?」
 その言葉は確かにみずからの口から飛びだしたもの――だけど、そんなことを言うつもりはまったくなかった。
 口が自分の思いどおりに動かない。今……自分はなんと言った?
「飛影?」
 思ってもみない自分の発言に驚きたちすくむ飛影の顔を、幽助が困り果てた様子でのぞきこむ。
「そんなにこれが気に入らないのか?」
「ち……がう……」
 幽助の言葉がかつてないほどに冷たく響いてきて、飛影は言葉をつまらせてしまった。
 ちがう……言いたいことは別にある。
「……わかった。斬ってくれよ」
 幽助は一瞬、目を伏せると、きっぱりと言い放った。
「えっ?」
「自分でひっこぬくよりは、おまえに斬られた方が痛くなさそうだからな」
「そ……んな……」
「おまえがどうしてもイヤだって言うんなら、自分でひっこぬくしかないけど」
「……」
 呆然として立ちすくむ飛影に気づいているのかいないのか、幽助はたたみかけるように話しかけてくる。
 ちがう! ちがう! ちがう! おれが望んでいるのは、そんなことじゃない!
 そう心の中で叫んで……ふと、ある疑問にとらわれた。
 おれはなにを望んでいるんだ?
「飛影。ちょっとだけ黙っててくれよ」
 飛影の心の中の嵐を知らぬ幽助は突然、そんなことを言うと、ふいに彼を抱きしめ純白の翼でふわりと覆った。
「なっ……」
 絶句する飛影の口を肩でふさぎ、背を右腕、腰を左腕でささえ、全身を翼で包み込んだ幽助は、その小柄なからだをやさしくあたためる。
「おれさ……一度、こんなふうにおまえをあっためてやりたかったんだ」
「幽……助?」
「おまえって、炎を操るくせに、なんか寒そうに見えんだよな」
 なんでだろ、とつぶやいてくすりと笑った幽助の吐息が耳にかかる。
 それがくすぐったくて、熱くって……不覚にも涙がこぼれそうになった。
「だからさ……イヤだろうけど、もう少しだけこうしててくれよ。そしたら、この羽根はずしてやるからさ」
 飛影は幽助に全身を守られたまま、沈黙していた。
 次に言う言葉は決まっていたけれど、それを口にしたくはなかったのだ。
 今、心の底から望むことはただひとつ――このまま、自分の時を止めてしまうことだけだ。
「もういい……」
 大丈夫。絶対に平気。なにがあっても傷つかない。これまで自分だけの力で生きてきたし、これからも自分だけの力で生きていく。幽助が空の彼方に飛び去ったところで、自分は変わらないし、世界も変わらないし、時間も止まらない――そう心の中で唱えながら、飛影がかすれた声を出す。
「えっ?」
「うっとうしいし、あつ苦しい……放せ」
「あっ、わりぃ」
 冷淡な言葉に、幽助は名残おしげに一瞬だけ強く強く飛影を抱きしめると、彼を解放してやった。
 その力強い腕と胸にはさまれて止まってしまった呼吸を取り戻すために息を吸うのは、呼吸を止め続けるよりも苦しい作業だったかもしれない。
「おれは寒くなんかない」
 飛影は幽助の腕が背から離れると同時に、うつむいたままつぶやいた。
「へっ?」
「おれは寒くなんかいないし、寒くなれば自分で火をつくることだってできる。だから、おまえなんかにあたためてもらう必要はない」
「……それもそうだよな」
 幽助はちょっとさびしそうにうなずくと、視線を地面に落としたまま、しばらく動こうとはしなかった。
 そして、よし! と一言、気合いを入れると、その場にでんと座り込む。
「覚悟はできたぜ! 遠慮はいらねぇから、スパッと斬ってくれ。できるだけ、痛くないようにしてくれよ」
 腕組みをして、真摯なまなざしで自分を見上げる幽助から、飛影は逃げるように視線をそらした。
「もういい」
「飛影?」
「もういいから、さっさとどこへでも飛んで行っちまえ。……おれはこれからも、地べたを這いずりまわって生きていくから」
「なにわけわかんないこと言ってんだよ」
「その羽根……おまえに似合ってる」
 戸惑う幽助を振り切るように、飛影はその場から立ち去ろうとしたが、手首をがっしりとつかまれ、ビクリと肩をふるわせた。
「放せ!」
 振り返ろうとしないままに飛影が低い声で命じる。
 しかし、幽助はそんなことにもかまわずに、すばやく立ち上がると飛影の肩を乱暴にゆさぶり、彼を振り向かせた。
「なにをする!」
 抗議の声をあげながらも、あいかわらず自分の顔を見ようとしない飛影のあごをつかみ、幽助は強引に視線をあわせる。
「なに言ってんだよ! なにが言いてぇんだよ!」
「なにも言いたくない!」
 幽助が大声を出すので、おもわず飛影は叫んでしまった。
 なにも言いたくない。もうなにも言えない。これ以上、なにかを言ったら、死ぬよりひどいめにあいそうな気がする。
「なにも言いたくねぇって……」
 幽助の顔がひきつり声がふるえ……飛影はわずかに後ずさってしまった。
 幽助が怖かったのだ――たまらなく。
「なにか言いてぇような顔して、んなこと言うんじゃねぇよ!」
「!」
 言葉で……殺されるかと思った。
 どうして幽助は、こんな時に限って鋭いことを言うんだ? いつもは腹立たしいぐらい鈍感なくせに。
「なにがそんなに気にいらねぇんだよ! おめぇがイヤだって言うんなら、この羽根、斬り落とすって言ってんだろ!」
「それで、せっかく手に入れた翼をおまえは手放して……そして、おれを一生、恨み続けるのか?」
「どうしておれがおめぇを恨むんだよ! おれがいつ、そんなこと言ったよ!」
「おまえは一人で飛べるんだぞ! どこまでも自由に行けるんだぞ!」
「おれは一人でなんか飛びたくない!」
 幽助は毅然として宣言すると、右腕を背にまわし、力まかせに左の翼をひきちぎった。
 紅く染まった純白の羽根が地に落とされ、幽助の背からは血がゴボゴボと湧き出している。
「ゆう……す……け……」
 呆然としてつぶやく飛影の瞳に、青ざめた幽助の顔が映り――消え去る。
 幽助のかわりに視界を埋めた、周囲に飛び散る紅くて白い羽毛が、自分を窒息死させてくれればいいのにと……心のどこかで願ってしまったのはなぜだろう。
 力を失い、がくりと両ひざをついた幽助は飛影にもたれかかったが、彼はその体重を支える力を持たず、二人はもつれあったまま地面に倒れこんでしまった。
「はっ……ははっ……わりぃ」
 飛影を押し倒すような格好になってしまった幽助が、ひきつった笑みをもらす。
「さ……すがにキツイや……」
 そう言って幽助は飛影の上からどこうとするが、腕はカクカクと震えるばかりで力がはいらず、自身の体重をささえることすらできない。
「ば……かやろ……」
 飛影はようやく声をしぼりだすと、激痛に耐える幽助の頭を胸に抱いたまま、両腕を鮮血があふれる背中へと伸ばした。
 幽助の血の感触が気持ち悪くて、吐き気すらおぼえる。
 たくさんの血を流してきた――自分の血も、他者の血も――けれど、それを気持ち悪いと感じたのは、生まれて初めてのような気がする。
 なぜ、この血だけが特別なのか? ……これは、命だからだ。
 あふれ出し、地に吸われていくのが、幽助の命のかけらだからだ。
 幽助の命が無駄に使われている。
 そう考えることは苦痛であり、それを自分は心から嫌悪するのだ。
「ちょっと待っててくれよ。もう片っぽもすぐにひきちぎってやるから……行かないでくれよ」
 苦しげに息を吐きながら、幽助はまだそんなことを言っている。
 幽助はいつだって、こんなわからずやのわがままで……だから、自分はこんなにも苦しい。
「もういい。もうやめろ。なぜ……おれなんかの言ったことにそんなにこだわる……」
 目をかたくつぶり、飛影はうめいた。
「おめぇが言ったことだからに決まってんだろ」
 間髪をいれず幽助は答えると、せいいっぱいの力をこめて、飛影を抱きしめた。
 幽助のものとは思えないほど弱々しいその腕は――けれど、しっかりと飛影の心を縛りつける。
 だから……もう動くことができない。もうどこにも逃げられない。
「おれはおめぇになにもやれないのに、おめぇを手放せないから。おれにできることならどんなことだってやってやる。だから……行かないでくれ。おれから逃げないでくれ」
 それは自分の台詞だ。幽助から自由を奪ったのは自分だ。幽助を解放してやれないのは自分だ。幽助によく似合う真っ白な羽根を奪い、血に染めたのは自分だ。
 それなのになぜ幽助は……こんな自分に固執するのか。
「もういい」
 飛影はつぶやくと上体を起こし、次いで幽助のからだを起こすと自分の肩によりかからせてやった。
 自分がなにを望んだのかはわからない。けれど、望んだものがすでに与えられていたことだけはわかった。
 自分はなにも失ってはいない。失われたものは――幽助の片翼だけだ。
「飛影?」
「もういい。もうこれ以上はいい。これ以上はいらない。だから……その羽根をひきちぎらなくてもいい」
 飛影はそう言うと、幽助の額にうきあがった汗をていねいに拭い取り、自分のマフラーをはずして、胴にまきつけてやった。
 幽助はうれしそうにそんな飛影の一挙手一投足を見守っていたが、ふいに首をかしげると、苦笑を浮かべた。
「だけど、片っぽだけじゃ飛べねぇし、バランス悪くて動きにくいし……第一、みっともねぇよ」
 幽助の言い分は実にもっともだったが、飛影は首を小さく横に振った。
「これ以上はイヤだ」
 いつになく弱気な飛影の声音が痛々しくて――幽助はこんな状況に飛影を追い込んでしまった自分が、ひどく情けなくなってきた。
「すまねぇ。こんなことになるとわかってたら、おめぇの知らないとこでひっこぬいたのに」
「そんなことを後で知ったら、絶対に許してやらなかったぞ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだ」
 他愛のない会話を交わしているうちに、頑丈な幽助はだいぶ具合がよくなってきて、顔色もなんとか平常を取り戻し、出血もようやく止まった。
「……にしてもなぁ」
 幽助はかたわらに置かれた片翼をみつめ、しばらく考えこんでいたが、ふいにぽんと手をうつと、それを拾いあげ、飛影の背におしあててみせた。
「うん、やっぱりよく似合うぜ。どうせなら、おれじゃなくておめぇの背中に生えればよかったんだよな。おれよりもおめぇの方が絶対に似合うのに」
 そう言って幽助は夢見るような視線を飛影に向けた。
 純白の羽根を広げる飛影は、きっとまぶしいくらいに綺麗で――自分は近づくことさえ、怖くなってしまうかもしれない。
 そうして飛影は飛んで行く。手の届くことのかなわない、はるかな場所に飛んで行って、月よりも星よりも遠い存在になる。
 そんなことを考えた瞬間に、幽助はあることに気づいた。
 もしかして……飛影も自分と同じことを考えたのか?
「そっかぁ……」
 幽助はうれしそうにつぶやくと、意味ありげに飛影をみつめた。
「うん。やっぱりこんなもんいらないや。おれにもおまえにも」
「おれはこんな邪魔なものを欲しがったことなどない」
「おれだって邪魔だぞ。片っぽになればもっとだ」
「……そ……れは……」
 おもわず口ごもる飛影の肩に、幽助がさりげなく腕をまわす。
 飛影はひじで小突いて牽制したが、幽助はそんなこともまったく意に介さず、さらに力をこめて肩を引き寄せた。
「この羽根、おめぇにくっつかねぇかな。そうすれば、こうやって肩をくみあって、二人で空を飛べるかもしれない」
 片翼しか持っていなくても、二人なら空を飛べる。
 自分だけの双翼よりも、一人ずつの片翼が欲しい。逃げるための翼なんていらない。どうせなら、一緒に飛ぶための翼が欲しい。
「それだったら、片っぽでもかまわねぇな……いや、そっちの方がうれしいかも」
「おまえ……何を考えている」
「おめぇと同じことじゃねぇのか?」
 おもわず顔をあからめた飛影に、幽助がしれっとして答え、おもいっきり派手に突き飛ばされた。
 先程までのあのしおらしさはどこへやら、というところだ。
「だけどさ、本当にこんなもんいらねぇから。すまねぇけど、斬ってくれねぇか? おまえに斬られるんなら、絶対に痛くないと思うから」
「だが……」
「頼む!」
 幽助におがみ倒され、飛影はしぶしぶとうなずいた。
 幽助を斬るのはどんな理由があろうとイヤだったが、あのしなやかで美しい動きが、こんなもので邪魔されるのもイヤだったのだ。
 さっそく幽助はぴんと背筋を伸ばして立ち、飛影は剣をかまえる。
「いくぞ」
「ああ」
 飛影は深呼吸をすると、息をとめ、剣をすっと引き下ろした。
 シャッ。
 風を切り裂く音が幽助の耳に届き、右の翼がその背から斬り離される。
 飛影はすぐさま剣を放り出すと、くずれおちる幽助を抱きとめた。
「幽助!」
「大丈夫だ。さっきのに比べりゃ、全然、痛くねぇ」
 飛影の肩に顔をうずめ、しばらく荒い息を吐いていた幽助は、ふいに背にまわした腕を動かし、浮き出る肩胛骨を指でなぞった。
「大丈夫だ。空を飛びたくなったら、おれはいつでも飛んでみせるから。こんなものはもともと必要なかったんだ」
 そう、翼なんかなくても――おまえがそれを望んでくれるのなら――いつでも空を飛んでみせる。
 おまえが望むすべての力を手に入れてみせる。
「なんか……からだがすっげぇ軽い。ふわふわしてて……おれ、まだどっか浮いてんのかな?」
「安心しろ。その分、おれが重くなってる」
「気持ちいいな……ずーっとこのままでいたいな……」
「冗談じゃない! いいかげん離れろよ、おまえ」
「なんだか眠たくなってきた」
「これだけ血を流せば当然だろ」
「動けないから、このまま寝ぐらまでおぶってってくれよ」
「あまったれるな!」
 飛影はそう言いながらも、幽助をささえ歩きだした。
 そうして二人は、いつもの二人に戻り――彼らは打ち捨てられた翼を振り返ることさえしなかった。

おわり

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