眼下に広がるのは彼が生まれ育った町。
ただし、「人間として」との注釈がつくが。
町を見下ろす高台の公園。この近辺では桜の名所として知られている場所で、夜遅くまで宴会をしていた団体もいたが、午前三時ともなるとさすがに引き上げて、今は凛とした静寂に包まれている。
道路を走る車もなく、住宅街の灯りも消え、ただ街灯が誰も歩いていない道を照らし出す。
そんな動かない風景を、長いこと凝視していた蔵馬が、視線を転じると、そこでは、園内の数十本の桜が、やけにまぶしく感じる月光に照らされ、気高くたたずんでいた。
「願わくは花のもとにて春死なん、その如月の望月のころ……」
口をついて出た句に、おもわず苦笑いがこぼれる。
こんな季節を選んだというのは、なにか悪いものに酔っているということかもしれない。
「見るべきほどのことは見つ……と言い切れないあたりがつらいけどね」
「何を見たりないって?」
独り言に返事がある。
驚いた蔵馬が振り向くと、いつもとまったく変わりない、飄々とした風情の静流が立っていた。
「いつから?」
蔵馬は驚きを隠し切れない。
こんなにあっさりと背後をとられては、S級妖怪もかたなしである。
「つい今しがただけど?」
なんでもない顔をして、静流は立っている。
蔵馬はひたいに指をたてて、小さなため息をついた。
おかしなぐらい動揺している自分が、少し情けない。
「こんな時間に一人で出歩いて、何をなさっていらっしゃるんですか?」
なんとか気持ちを落ち着けて、蔵馬は穏やかに話しかけた。
若い女性の夜の一人歩きは危険、という常識は、静流には適用されないと承知しているが、なぜ、わざわざこんな時に現れるのか……偶然にしてはあまりにもできすぎている。
「桜がさわがしくって、眠ってられない」
「え?」
静流は近くの桜の樹の幹に寄りかかり、右手で枝をつかんだ。
「この子たちを泣かせてるのは誰かと思ってきてみたら、案の定、蔵馬くんだったね」
「……すみません。静流さんの安眠妨害をするつもりはなかったんですが」
蔵馬は素直に謝った。
どうやら、自分の「気」に桜が感応してしまっていたらしいが、そんな微量な気配をかぎつける静流の感覚の鋭さにはおそれいるばかりだ。
「女と花は泣かせちゃダメだよ」
いたずらっぽく静流が笑う。
何もかも知っているような顔に、蔵馬は苦笑するしかなかった。
自分は千年以上生きているが、この人はもしかしたら、三千年くらい生きているかもしれない。
「両方とも泣かせたくて泣かせるわけじゃないんですけど」
「じゃあ、これから、女を泣かせる予定があるんだ」
「…………」
蔵馬はおもわず口元に手をやる。
一体、この女性は、何をどこまで知っているのか……何も知っているはずがないのに、そんなことを考えてしまう。
「邪魔なら帰るけど、どうする?」
一人になりたいのか、このままそばにいて欲しいのか、どちらでも選べと静流は言ってくれているのだと、蔵馬は解釈した。
トレーナーとスリムジーンズとサンダルというラフな格好にもかかわらず、これまでに出会ったどの女性よりも美しく、そして頼もしく見える彼女に、蔵馬はゆっくりと近づき、冷たい夜風にそよぐ髪を握りしめた。
清浄な霊気が髪を介して流れ込んでくる。
もしかしたら、心の底の方で誰かに助けを求めてしまっていたのかもしれない。その声に、静流は応えてくれたのかもしれない。
救いなど……求められるような立場ではないのに。
「帰らないでください」
「そう?」
当然でしょう、といった顔で静流が言う。
人間になって以来、たくさんの奇跡と出会ったけれど、この女性の存在もまた奇跡のようだ。
「『南野秀一』を殺します」
蔵馬が小さな声で企みを告白する。
短すぎる説明だが、静流はその内容を正確に理解したようだった。
「なんで?」
「そろそろ、人間としての年齢をごまかすのも限界だと思います。妖化も着実にすすんできていますしね。かなり無理がでてきています」
「記憶操作とかでごまかせない?」
「それにも限界というものがあります」
「人間をだますのはキツネの得意技じゃないの?」
「確かに人をだますのは得意なんですけどね」
蔵馬は肩をすくめた。
嘘をつくのはうまいほうだと思うが、だからといって、平然とそれをやっているわけではない。
「いっそのこと、本当のことをバラしたら? 幽助くんとこはそれでうまくやってるよ」
「幽助とおれとでは、事情が違いますよ」
蔵馬はさびしそうに目をふせた。
「幽助は肉体も魂も正真正銘、温子さんの子供です。けれども、おれは違う。彼女の本当の子供の魂は、おれが追い出してしまった」
「…………」
「父親も母親も人間です。だから、その息子である南野秀一も人間でなければいけないんです。彼女の息子が妖怪だなんて……彼女が許してくれても、おれが許さない」
蔵馬の表情から、静流は怒りのようなものを読みとった。
おそらくは、このような事態へ自分を追い込んでしまった過去の自分に対する、行き所のない怒り。
「人間のままで……南野秀一を終わらせなければいけません」
「おふくろさんを泣かせても?」
「いずれにしろ、数十年のうちには死ぬんです。人間ですから」
「けど、息子よりおふくろさんの方が先に死ぬでしょ、だいたいは」
「……意地が悪いですね」
「本当のことを言っただけだよ」
本当のことだからこそ痛いのだと知っていて、静流はわざわざそのようなことを言う。
覚悟のほどを確かめられているのだ、と蔵馬は思った。
ためにならないあまやかしを、決してしない人だから。
「久しぶりですね……」
「なにが?」
「最近、誰も厳しくしてくれなくって」
「なある」
蔵馬はなんでも器用にこなすし、誰かに指摘を受けるような失敗もしないし、事実上、彼よりも上の立場にいる者はいない。
忠告されるとか、怒られるとかいう機会も皆無だろう。
「気持ちのいいものですね」
蔵馬がしみじみと言うので、静流はおもわず吹き出してしまった。
「たまにだからでしょ」
「相手が美人だからかもしれません」
「あいかわらず、うまいねぇ」
さらりと、左手で前髪をかきあげながら、静流は右の人差し指で軽く蔵馬の額を小突いた。
「男の子だからね。強気なのもいいけど、たまには弱音ぐらい吐いてる方がかわいいよ」
一般的に、何歳までを「男の子」と言うのかはわからないが、どうやら静流の感覚ではいつまでたっても蔵馬は男の子らしい。
「かわいくなくてもいいです」
「そうかい?」
「でも……弱音は吐きたかったみたいです」
蔵馬の消え入りそうな声に、静流は言葉ではなく両腕を広げることで応えた。
吸い込まれるようにして、蔵馬がゆっくりと倒れ込み、その右肩に顔をうずめる。
静流は桜に背中をあずけ、蔵馬の頭を守るような形で腕をまわした。
二人の長い髪が風にそよいで、からまるようにして混じり合っていく。
「そんな無理しないで、いつまでもシラを切り通せばいいのに……」
「ほころびをみつけられるのが怖いんです」
「みつけられる前に脱いじゃいたい?」
「ええ」
「根性なしだね」
「まったくです」
蔵馬の瞳から涙がこぼれる。
失いたくなかったものは『南野秀一』。なりたかったものも『南野秀一』。そして、今、『南野秀一』を殺そうとしているのも『南野秀一』だ。
これまで、自分であって自分でないものと共存し、対峙し続けてきた。
どちらかの自分だけを愛せればよかったのかもしれない。
蔵馬を愛してくれる者と、南野秀一を愛してくれる者の、どちらか片方だけを選べればよかったのかもしれない。
けれど、それは不可能なことだ。
何を選ぶにしても、捨てられるのは自分自身でしかありえない。
失うことをおそれ怯え続ける心と、母の意志を無視し自分の都合を優先させてきた罪の意識が、逃げ出すことを選ばせたのだと、自分でわかっていてもなにもできない。
たくさんの罪をおかし、それをなにひとつ償うことができないまま生きてきて、その罪を償う術は、この先、何千年生きようとも得られないのだと知りながら、生きていくことしかできない。
「すみません。こんなことにつきあわせてしまって……」
「さっきから、謝ってばっかだよ」
「……ありがとう……ございます」
「正解。ごほうびに夜明けまで肩を貸してあげるわ」
静流が言ってくれたので、蔵馬は遠慮なく肩を借りることにした。
泣くことはできないと……すべての元凶は自分なのだから、そんなことはできないと思っていたが、彼女がそれを許してくれるのなら、あまえてしまってもいいかもしれない。
何も知らないまま、自分が生きることを許し続けてくれていた母から離れていく自分を、一晩だけ見逃してもらえるのなら。
「ごめんなさい」
それは、子が母に赦しと愛を乞う言葉。
そして、それに呼応するかのように、満開の桜がいっせいに散りはじめた。
月光の下、桜吹雪が舞い散る。
白い燐光を放ちながら。
「今年の桜はもう終わりだね」
「すみません。後で戻しておきます」
「無粋なことを言うもんじゃないよ」
静流は蔵馬の髪にかかったうす紅色の花びらを、ひとつひとつ丁寧につまみあげては風に流す。
「いいよ。今年のこの町の桜は、全部、蔵馬くんにあげる」
まるで、自分が桜の持ち主であるかのように、静流は言い、ほんの少しの沈黙の後にこう付け加えた。
「……花に嵐のたとえもあるさ、サヨナラだけが人生だ、ってね」
花は風にさらわれていく。
人は運命にさらわれていく。
それでも、風も運命も憎むことはできないから……。
二人は抱き合って、『死』を悼むことしかできなかった。
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