ひとかけらの奇跡


たったひとつの言葉 たったひとつの笑顔
そんな小さなものに奇跡はつめこまれている


 珍しいことに早退もせず、他の生徒たちにまじって下校しようとしていた幽助は、校門の脇に立つ、妙に目立っている人物を発見し、声をかけた。
「よおっ、蔵馬じゃねえか! 久しぶりだな」
 文庫本を読んでいた蔵馬は、待ち人の元気な声に本をパタンと閉じながら顔をあげ、駆け寄ってくる幽助をみやり穏やかに微笑んだ。
 その笑顔は男のものとは思えぬほどに艶やかで美しい。すれ違う女生徒たちの視線が、自分たちに集中しているように感じられるのも、幽助の気のせいというわけではないだろう。
「こんなとこで何やってんだ?」
「貴方を待っていたんですよ」
「へっ? おれを?」
「実は、明日、母が退院するんです」
「そっかあ……そりゃ、よかったな」
 幽助が本当にうれしそうな表情を見せてくれたので、蔵馬は少し照れくさそうな顔で小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。それで、母が無事に退院できたのも幽肋のおかげてすから、一応、報告しておこうと思いまして」
「それだけのために、わざわざ来てくれたのか?」
「ええ」
「そんなに気をまわすことなかったのに。……でもまあ、おめえに会えてうれしいぜ」
「おれもですよ」
 最後に会ったのは、確か、二週間ほど前……飛影と闘い、降魔の剣と螢子を取り返した時で、ドタバタしていたうえ、蔵馬が傷を負っていたので、ゆっくり話もできなかった。
 幽助としても、自分をかばい傷を負った蔵馬のことを気にかけていたので、彼の元気な姿を見ることがてきて、本当にうれしかったのだ。
「そういえば、あの時の傷の具合はどうなんた?」
「もうなんともありませんよ」
「妖怪ってのは丈夫なんだな。腹、斬られて、たった二週間やそこらでそんなに元気になるもんなのかよ。普通だったら病院行きだぜ」
「母子そろって入院じゃ、しゃれになりませんからね」
「それもそうだ」
 二人は歩きながら会話を続けていたが、交差点のところでふいに幽助が立ち止まり、それにならって蔵馬も立ち止まった。
「蔵馬。おふくろさん、明日、退院ってことは、今日の晩メシはどうすんだ?」
 それまでの会話とはまったく関連がない幽助の唐突な質問に、蔵馬が小首をかしげる。
「どうするって……自分で適当になんかつくって食べますけど」
「じゃあ、ちょっとつきあえよ。今日はうちもおふくろがいねえからさ。一緒にメシでも食おうぜ」
「そうですね。一人で食べるのも寂しいですから、ご一緒させていただきましょうか」
 そうやって話はまとまり、幽助は『雪村食堂』という看板のかかった店へ、蔵馬を案内した。
「ここ、螢子んちなんだ」
「螢子さんて……このまえ、飛影にさらわれた彼女ですか?」
「ああ。ここは一家そろって世話好きでさ。一人の時はいつも、メシ食わせてもらってんだ」
 説明をしながら幽助が雪村食堂のドアを開けると、威勢のいい声が二人の耳に飛び込んできた。
「いらっしゃい……おっ、幽ちゃんじゃねえか。今日はまた、ハンサムな兄ちゃんを連れてるねえ」
「おれのダチなんた。サービスしてやってくれよ」
「幽ちゃんの友達にしちゃあ、品がいいじゃねえか」
「おれのダチだから品がいいんだよ」
 そんな軽口を叩き合いながら、幽助が椅子に腰かけたので、蔵馬もその正面の席に座った。
「どれにする? どれも結構、いけるぜ」
 メニューを渡しながら、幽助が尋ねてくる。
「では、しょうが焼き定食を」
「わかった。おっちゃん! しょうが焼き定食とカツ丼の大盛り、ひとつずつ!」
「あいよっ!」
 食堂の主人に声をかけて、蔵馬の方に向き直り、人好きのする妙に幼い笑顔を見せる幽助は、本当にごく普通の人間の子供だ。
 確かに格好は不良っぽいが、まなざしも言葉も実に素直で、邪気がまったく感じられない。幽肋は幽助なりに、周囲に愛されて育ってきたのだろう。
 そう思ったら蔵馬はふいに、幽肋のことを詳しく知りたくなった。
「お母さんがいないって……どこか旅行にでも?」
 蔵馬の問いに幽助は目をぱちくりさせ、しばらくしてようやく、蔵馬とはつい最近、知り合ったばかりで、彼は自分の家庭環境についてまったく知識を持っていないのだ、ということに思い当たった。
 なぜか、ずっと昔からの知り合いのような感覚でいたので、一瞬、どうしてそんな当たり前のことを尋ねてくるのか、と思ってしまった。
「いつものことだ。時々、ふらっといなくなるんだ、うちのおふくろ」
「ふらっといなくなるって……じゃあ、お父さんはどうしてるんだい?」
「親父はいねえ。うちは二人家族なんだ」
「……すまない。立ち入ったことを聞いてしまったみたいだ」
 バツが悪そうな表情で謝る蔵馬に、幽助は屈託のない笑みを向けた。
「気にするな。親父なんかいなくても別にどうってこたあねえよ。おめえだって立場は同じだしな」
「それもそうだね」
 蔵馬は大きくうなずいた。
 幽助が自分と同じ母子家庭で育てられていたとは知らなかった。
 もしかしたら、幽助が自分に対して、あれほどまでに同情的たったのは、そういう理由があったからなのかもしれない。
「もっとも、うちの親父は死んだわけじゃなく、最初からいねえんたけどさ」
「最初からいない?」
「おふくろは結婚しねえでおれを産んだんだ。いわゆる未婚の母ってやつだな。すっごく若えぜ。まだ、二十九だ」
「…………さすがに幽肋の母親だね」
「そりゃ、どういう意味だよ」
「もちろん、いい意味だよ」
 からかうような蔵馬の口調に、幽助はしぶい表情を見せたが、それも、ちょうどやってきた料理を前にして、すぐに上機嫌のそれに変わってしまった。
「いただきます」
 声をかけあい、二人は黙々と夕食を食べる。
 すごい勢いでカツ丼をかきこんた幽肋は、ゆっくりと定食を食べている蔵馬をながめやり、ふと難しそうな表情を浮かべると、身を乗り出し顔を近づけ、小さな声で尋ねてきた。
 一応、人の耳を気にしているらしい。
「ところでよ……あの後、霊界からは何か言ってきたか?」
「先日、霊界裁判の席に出頭しました。今は判決待ちの身です」
「ぼたんが情状酌量が認められそうだ、とか言ってたけど」
「ええ、思ったよりも罰は軽くなりそうですよ。これも幽肋のおかげです」
「おれは何もやっちゃいねえよ」
 照れたような表情を浮かべ、乗り出していた身を引き、椅子の背にどっかと体重を寄せた幽助を見て、蔵馬は微笑んだ。
「おれはおれの罪を、死をもって償おうと考えていました。けれど、今は生きて償うことができる……すべて幽助のおかけです。感謝しています」
「…………」
「あの夜、母さんは目覚めてすぐにおれの名を呼んでくれたんです。それが……涙が出るほどうれしかった。おれはまだ、彼女に必要とされているんだと……彼女のそばにいてもいいんたと……この罪は許されるべきものではないけれど、おれは生きて、彼女に償い続けようと……そう思いました」
 そう言って、蔵馬はわずかに目をふせた。
 幽助が知る必要はまったくないとわかっていることを、どうして語ってしまうのか、自分でもよくわからない。もしかしたら、幽助に自分の過去と罪について語ったあの時のように、誰かに懺悔の言葉を聞いて欲しかったのかもしれない。
「……許すも許さねえもねえよ。親子なんたろ。まぎれもない」
 ぶっきらぼうな言葉に、蔵馬はハッとして幽肋をみつめた。
 南野秀一と南野志保利はまぎれもない親子だ――その言葉を心底、欲しがっていた自分に、今、ようやく気がついた。
 第三者の目など気にしたことがなかったはずの自分が、実は誰かに南野志保利の息子としての自分を認めて欲しがっていたのだ、という事実が、ふいに目の前に降ってきた。
 許されたわけではない。罪が消え去ったわけでもない。けれど、幽肋の一言で、すべての暗雲が振り払われたような気がした。
 それはまるで――奇跡のようだ。
「す……ごい……」
 蔵馬の口からもれでた感嘆の言葉に、幽肋はきょとんとしている。
「どうしたんだ? 蔵馬」
「いや……なんでもないです。気にしないてください」
 蔵馬は笑ってごまかすと、黙々と箸を勤かし始めたので、幽肋はそれ以上の追及はしてこなかった。


 蔵馬が食事を終え、ひとしきり世間話をした後で、二人は店を出た。
「今日はとても楽しかったです。どうもありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしちゃいねえよ」
「では、今日はここでお別れしますね。また連絡をしますから」
「おう、気軽に声かけてくれや」
 手を振る幽助に背を向け、蔵馬は駅に向かって歩き出した。
 自分が求め続けていた答えを胸に抱き、新しい奇跡に出会える日を心待ちにしながら踏みしめる一歩一歩が、自分でも笑ってしまうぐらい軽く感じる。
 家に帰ろう。
 家に帰って、掃除をして、花を飾って、母を迎え、以前と変わらぬありふれた生活を始めよう。
 そして、母への償いのためにではなく、母と幸せになるために生きていこう。

おわり

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