帰る場所


帰りたい場所に 抱きしめてくれる人がいるのなら


 闘場では決勝戦の準備が行われている。
 飛影は個人用の観覧室の大きな布張りの椅子に腰かけて――正確に描写すると、椅子の一方のひじかけに背をあずけ、もう片方のひじかけに両足をかけて――モニターに映し出されているその光景をぼんやりと眺めていた。
 骸相手にギリギリまでねばったため、さすがにからだのあちこちが悲鳴をあげている。それに、最初から勝てる相手と思っていなかったとはいえ、やはり負けは負け、気持ちのいいものではない。
 そんなわけて、精神力、妖力ともに使い果たしていた状態だったので、その騒がしい男の接近にも気づくことができなかったのだろう。
「よおっ、飛影。ここにいたのか、探したぜ」
 ドアを足げりした音とそれに続く元気すぎる声に、飛影がおもわずこめかみを指でおさえる。
 飛影のそんな疲労感に気づく様子もなく、彼の前方に立ちその表情を観察した幽肋は、実に無邪気に――ついでに言えば実に無神経なことに――率直な感想を述べた。
「さすがに疲れてんな」
 真実であるがゆえに不愉快な言葉に、飛影がじろりと視線だけを動かす。
「わかっているなら、疲れを増すようなことをするんじゃない」
 こういう時の飛影のまなざしは、普段ならばもっと鋭い光を発しているのたが、今は表情も声もまなざしもどこかけだる気で、幽助はかなりな違和感をおぼえたが、疲れているようだからそっとしておいてやろう、という方向には考えがいかなかったようである。
「冷てえこと言うなよ。せっかく薬を持ってきてやったんだから」
「薬?」
「ほら。蔵馬がこんなにたくさん薬を置いてってくれたんだぜ」
 幽助は自慢そうに手に持っている木箱を示してみせた。
「薬を置いてった? そういえばやつはどうしたんだ?」
「学校があるから人間界に戻った」
「やつはまだそんなことをやっているのか」
「蔵馬はおれと違って学校が好きだからな」
 幽助がそう答えながら、箱の中身をドサッと床にぶちまける。
 小びんに入った液体やら、紙に包まれた粉薬やらが、箱から転がり出てきたが、いかにも蔵馬らしいと思われるのは、そのすべてにきちんと手書きの使用説明書が添付されているということだ。もっとも、幽助が使うということで、不安を感じてわざわざこのようなことをしたのかもしれないが。
「えっと、これが血どめて、これが化膿どめで、これが火傷用だから……と言っても、どれをどの傷に塗りゃあいいのか、よくわかんねえな」
「…………」
 いいかげんなことをつぶやきながら、薬の注意書きを熱心に読んでいる姿を見ていると、蔵馬が本当に親切心で幽助に薬を託したのかを疑いたくなってくる。
「……自分でやる」
 飛影はぶすっとして言うと、椅子から降りて床に座り込み、適当に薬を拾いあげ、ぺたぺたと傷口に塗りはじめた。
 幽助は所在なげにその様子を見守っていたが、ふいに飛影の手から薬をとりあげると、その背後にまわった。
「この背中の傷はこれでいいのか?」
 幽肋の問いにわずかに顔をしかめながらも、飛影は別の薬を肩ごしに放ってよこした。
「おまえは傷の手当のしかたも知らないのか?」
 薬をキャッチした幽助に、飛影が振り向かないままで問いかける。
「昔は螢子がしてくれてたし、その後はずっと蔵馬がやってくれてたし、こっちに来てからは北神たちがやってくれてたからな。……そういえば、おれって自分で自分の怪我の手当をしたこと、あんまりねえや」
「ふん。ぜいたくなやつだ」
 飛影のつぶやきには、わずかにうらやむような響きがまじっていた。
 女にあまやかされ、仲間にあまやかされ、部下にあまやかされる。そんな男が、なんでこんなに強いのか。
 強くなるためには呪いと憎しみと孤独が必要なのだと、ずっと信じてきた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「……そうだな。いつも、薬塗ったり、バンソーコー貼ったり、包帯巻いてくれるやつがそばにいるってのは、考えてみりゃあぜいたくだよな」
 思い返してみれば、どんな些細な傷も見逃さず、とびつくように手当してくれる連中が、どういうわけだか必ずそばにいてくれた。本当の意味で一人ぼっちになったことなど一度もなかった。
 そんな自分の幸福にしみじみと感謝しながら、幽肋は飛影の背中の傷のない部分をポンとたたいた。
「ほい。薬、塗ったぜ。包帯もついでに巻くか?」
「自分でやるからいい」
「そっか」
 飛影は幽肋に視線を向けないまま、黙々と自分のからだに包帯を巻きつけていく。
 その光景を見ているうちに、幽助はちょっと寂しくなってきた。
 自分がこうしてそばにいるのに、飛影はなぜみずからの手で薬を塗り、包帯を巻いているのたろうか。飛影はずっとこうやって、誰にも面倒を見てもらえずに一人っきりで生きてきたのだろうか。怪我をしても病気をしても、誰も心配してくれなかったのだろうか。もしかしたら飛影は、「痛い」とか「苦しい」とか言ったことがないんじゃないのだろうか。
 飛影を見ていて、初めて知った。傷を負った者がなんでもない顔をして黙っていることの『痛さ』を。
「飛影は骸んとこの筆頭戦士になったって聞いたけど、誰も手当に来てくんねえのか?」
「一応、来たが追い返した」
「なんで?」
「傷の手当なんか一人でできる」
「けど、なんにもやってなかったじゃねえか」
「めんどくさかった」
「痛いのを我慢するよりゃマシだろ」
「痛くないからいいんだ」
 飛影は意識しているのかいないのか、話をとことんはぐらかす。
 そこらへんが妙に飛影らしくて、幽助はおもわず吹き出してしまった。
「何がおかしい」
「いや……なんでもない。気にするな」
 ようやく振り向いてくれた飛影の目がすわっていたので、幽助はあわててその場を取り繕った。
「ところでさ……飛影」
「なんだ?」
「おれさ……決勝戦が終わったら、人間界に戻ることにしたんだ」
 幽助が告げた言葉に、飛影は一瞬、目をみはり…………そして、ふいっと視線をはずした。
「それが……どうした」
 こぼれ出た言葉は、幽助に向けられたものだったのか、自分自身に向けられたものだったのか。
「それがどうしたって……一応、言っとこうと思っただけなんだけど……」
「おまえがどこにいようと、何をしようと、おれには関係ない」
「それはそうなんだけどさ……」
「だいたい、蔵馬もおまえもどうして人間界に帰りたがるんだ。あんなつまらないところで、せっかくの力を隠して暮すなんて、馬鹿馬鹿しいとは思わないのか?」
 だんだん飛影の口調が鋭さを増し、瞳が責めるような色を帯びてきた。
 先ほどまでは、疲れきって声を出すのもおっくう、といった様子だったのに、どんどん元気になってくるのだ。
「いきなり元気になってきたな……」
 あきれているのか、感心しているのかわからない表情で幽助かつぶやき、飛影ははっとして顔を強ばらせた。
 関係ない、と言った舌の根もかわかぬうちに、自分はなぜこんなおせっかいなことを言っているのだろうか。
 これではまるで、自分が幽助を引き止めたがっているようではないか……。
「……いずれにしても、おれにはどうでもいいことだ」
 今までの発言を打ち消すようにつぶやいた飛影だったが、もちろん今までの発言がそんなことで打ち消されたりはしないし、幽助もそこまで物覚えが悪いわけではない。
 ポーカーフェイスを装っているわりには、いつも動揺を隠すことに失敗している飛影を、幽助は静かなまなざしでみつめた。
「仙水を追っかけて初めて魔界に来た時、あんまり呼吸が楽なんてビックリした。水があうってのは、こういうことを言うんだなって思った。おれは魔界が好きだし、ここは住みやすい。だけど、それでもおれは人間界に帰りたいんだ。あそこには……未練がありすぎる」
 幽助の言う『未練』は、記憶を共有した『人々』であったり、過ごしてきた『時間』であったり、見慣れた『風景』であったりするのだろう。
 幽助が生まれてたかだか十六年。それでも、刻み込まれた記憶は、捨て去ることができるほど少ないわけではないのだ。
「だけどさ……人間界に帰ったら帰ったで、魔界に帰りてえな、とか言っちまうんだろうな、おれは」
 肩をすくめながらつぶやくその姿を見て、幽肋には幽肋なりの迷いがあるのだ、ということに飛影は気づいた。
 幽助はいつでも実にあっさりと決断を下すものたから、迷いなど知らないものとでも思っていたらしい。
「本当に帰りたい場所がどこなのかはわかんねえけど、今は人間界に帰りたい。だから、おれは人間界に帰るんだ。……それ以外の理由なんてなんにもねえよ」
 それでも、迷いをさらりと振り切って、幽助はいつでも幽助らしい答えを導き出す。その答えを否定する力を持つ者などどこにもいない。
「……住みたい場所に住めばいい。誰も止めたりなんかしない」
「うん、そうだな」
 幽助は飛影の答えにうなずくと、薬をかきあつめ木箱の中に戻した。
「ところでおめえはしばらく骸んとこにいるのか? ……と……飛影?」
 箱をポンとしめた幽助が顔をあげると、そこには目がうつろになった飛影が座っていた。
「飛影? どうした? まさか、薬のせいじゃねえだろうな」
 驚いて肩をゆすると、飛影はコトンと前のめりに倒れ、幽助のひざに頭をのせたまま目を閉じ動かなくなってしまった。
「おいっ、どうしたっ」
 肩をゆすっても眉すら動かそうとしない飛影をひざの上にのせたまま、幽助は途方にくれていたが、ふとあることを思い出し、気のぬけたつぶやきをもらした。
「そういえば、さっき骸とやりあってた時、黒龍波を使ってたっけ……」
 どうやら、黒龍波の後遺症が今になって出てきたらしい。
「なんで、今頃、眠ってんたよ、おめえ」
 幽助が笑いながら飛影の頭を軽くたたくと同時に、スピーカーから飛び出した大きな喚声と拍手が部屋中を埋めつくし、闘場で決勝戦が始まったことを幽助に伝えた。
「こんなおもしろそうな試合、見れねえなんて気の毒だよな……」
 そうつぶやいた幽助だったが、ここで起こすのと起こさないのと、どちらがより飛影を怒らせるか判断がつきかねたので、とりあえずそのまま寝かせておくことにした。

おわり

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