契約の証


いつまでも想い続けているから おまえだけは笑顔のままで


 コエンマは公園の噴水の脇にたたずみ、幽肋を待っていた。
 いつもなら幽助の家に直接、出向くか、ぼたんを使いに出すのだが、そこには霊界の監視役がいる可能性があるので、念には念をおして、コエンマは迂遠な行動をとった。
 幽助と自分の接触を、霊界が好まないことはよくわかっていたからだ。
「おーい! コエンマー!」
 名を呼ばれ、噴水の水飛沫の向こう側から、駆け寄ってくる幽助を視界におさめたコエンマは、わずかに顔をしかめた。
 あいかわらず呼び捨て――無遠慮で年上の者に対する礼儀のかけらもない。
 しかし、遠慮とか礼儀とかいう概念をいつか教え込んでやりたいと思いつつも、自分に対してそのようなものを見せる幽助を想像すると、背筋に冷たいものがはしる。
 幽肋に「コエンマさま」などと呼ばれたら、ショック死するかもしれない。
 ふと、そんなことを考えたら、笑いがこみあげてきた。
 時間ぴったりに待ち合わせの場所に姿を現した幽助は、目許を手でおさえながら、くすくすと笑っているコエンマをけげんそうにみつめる。
「なに、一人で笑いこけてんだよ。長生きしすぎて脳みそにガタがきたのか?」
「うるさい! ワシはまだ若いぞ!」
「おお、悪かった。おめえはまだガキだったっけか」
「ワシは霊界の実力者だぞ。ガキなわけがなかろう」
 コエンマは笑いをおさめると、髪をさらりとかきあげ、胸元で腕を組み、威厳たっぶりに答えたが、そんなものが幽助に対して有効だったためしはない。
「へん。実力者ったって、もうそろそろおんだされんじゃねえのか?」
 あきれたように言った幽助の、その瞳が少しばかり真剣だったのは、それが冗談とも言い切れなかったりするからだ。
 父であるエンマ大王の命令を無視し、仙水をかばい、幽助をかばい、魔界まで行ってしまったコエンマの行動が霊界の不興をかったことは、幽助もよく承知している。
「心配することはない。霊界のことはワシだけの問題だ。おまえには関係ない」
「……そりゃそうだろうさ」
 そっけなく答えた幽助の声に、わずかにすねたような響きを感じ取り、コエンマは穏やかに微笑んだ。
 気遣ってくれているのだ。どうにも手のつけられない素行不良の少年、と調書に書かれていたこの幽助が。
「心配しないで欲しい。これはワシが負うべき荷であって、おまえが背負い込むものではない。ワシは自分の荷をおまえにおしつけるような、情けないことはしたくない」
「……わかった」
 コエンマはさきほどの発言を正直に翻訳し、幽助もそれにしっかりとうなずいた。
「それにしても………」
 幽助がつぶやきながら、コエンマの頭のてっぺんからつまさきまでをじろじろと眺める。
「その格好はいったいなんなんだよ。それにこのバンダナ……飛影のマネか?」
 初めて見るコエンマのスーツ姿に、幽助は正直、面食らっている様子だ。
「理由は似たようなもんだな。額の文字を隠すためだ」
「んなもん隠したことなんてなかったくせに」
「ここは町中だからな、そうもいかん」
「いいじゃねえか。はずせよ」
 幽助がふざけてコエンマの額に手を伸ばす。
 コエンマはうるさそうに差し出された手首をつかむと、幽助を真剣なまなざしでみつめた。
 その表情がなぜかとても怖くて――幽助はおもわず息をのんでしまった。
 そんな幽助の戸惑いに気づいたコエンマが、ふいにニコリと笑うと、幽助の額にひとさし指で文字を描く。
「こんなふうにおまえとお揃いなら、はずしてやってもよいぞ?」
「……けっ。そんなみっともないマネできっかよ」
 コエンマの妙な雰囲気にのまれてしまったことが気はずかしかったようで、幽助はことさらに大声で答えると、つかまれた手首を乱暴に振りほどいた。
「そのみっともないマネをワシにさせるつもりだったのか」
「みっともねえなんて思ってねえくせによ」
 幽助は吐き捨てるように言うと、大股でずんずんと歩いていってしまったが、十歩ほど進んだところでくるりと振り返り、コエンマをみやった。
「おい。早く来いよ。まったく、年寄りは足が遅くてかなわないぜ」
「おまえと比べたら、どんなやつだって足が遅いわい」
 コエンマは笑いながら答えると、そっと額に手をあてた。
 幽助が真にそれを望むのなら、自分はこの額の刻印だって消し去ってみせるけれど、幽助かそれを望むことはきっとないだろう。
 それは多分、いいことだろうけれど、なぜか、哀しい気もする。
 そんな考えにとらわれたコエンマが無意識のうちに立ちつくしてしまったので、気の短い幽助が逆戻りしてきた。
「なに、ボーッとつったってんだよ」
 幽助の声でようやく現実の世界に意識を引き戻したコエンマは、照れたように笑った。
「幽助」
「ん?」
「ワシが一度、おまえに命を賭けたことを覚えておるか?」
「覚えてっけど……なんで、いきなりそんなこと聞くんだよ。……まさか、今頃になって、あの時の貸しを返せ、とか言うんじゃねえだろうな」
 おもわず身構える幽助に、コエンマはいかにも心外そうに眉をひそめてみせた。
「ワシはそんなにセコくないぞ」
「じゃあ、なんでだよ」
「たまにはワシのありがたみを思い出させてやらんといけない、と思ってな」
「ありがたく思われたかったら、コーヒーをおごれよ。ありがたく飲んでやるぜ」
 幽助はそう言って笑うとスタスタと歩き出し、コエンマはその一歩、後ろを歩きながら、出会った時よりも一回りほど広くなった彼の背中を凝視した。
 今度は『命』じゃない。
 今度は『運命』を賭ける。
 人々の運命をみつめることしかできなかった自分にも運命というものがあったのだ、ということを教えてくれたのは幽助だったから、それを彼自身に賭けるのもそうおかしなことではないだろう。
「できればもうやばい賭けはしたくなかったんだがな……」
 苦笑まじりのコエンマの小さなつぶやきは、賭けの対象者には届かなかったようだった。


 これは契約。
 『運命』を幽肋に賭けると、自分は自分自身と契約を交わした。
 契約書もいらない。宣誓もいらない。証人もいらない。幽助が知ることもない。
 ただ、今のこの想いだけが契約の証だから、この契約が破られることはない。

おわり

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