王子と剣士の物語


 広い広い魔界の中に小さな王国がありまして、その国には国王が崩御してから一年間は国中で喪に服し、その期間中は玉座は空のまま王子がその業務を代行し、一年後の先王の最初の命日に盛大な戴冠式を行い、王子が正式に王位を継ぐというしきたりがございました。
 さて、名君との誉れも高かったその国の先王が亡くなってから約十一ケ月が経ち、一ケ月後には正式に王となる王子は、その名を幽助と申しまして、最強無敵を誇る戦士でありましたが、堅苦しいことが大嫌いな性分で、政治にもとんと無関心でした。
 もっとも、王子はその方面にはまったく才能がなかったので、彼が口出ししない方が国はうまく治りましたし、その強さと明るさ、そしてカリスマ性でもって国内外に人気が高く、誰も彼の言動に文句をつけたりはしません。
 しかし、一見、幸福そうな生活を送っている幽助王子にも悩みはあります。
 束縛されることを何よりも嫌う幽助は、実を言うと王になることを、心の底で疎んじていたのです。
 そして、そんな彼の悩みをさらに増大させる、ある事件が起こりました。
 一部の重臣たちが、幽助を結婚させようと、勝手に縁談をすすめてしまったのです。
 未来のお妃候補として担ぎ出されたのは、雪菜という、透けるように白い肌を持つ、おしとやかで愛らしい深窓のご令嬢でございましたが、幽助に結婚の意志はまったくありません。
 彼は雪菜を好ましく思っておりましたが、それは恋愛感情とはほど遠いものでしたし、彼は雪菜ではなく、その兄である国一番の剣士、飛影に強く心惹かれていたのです。
 笑顔が愛くるしい雪菜とはまったく似ていない、無愛想で無口で、王子である幽助に対して礼儀のかけらも見せたことがない飛影が、さびしげに佇んでいるところや、妹を愛しげなまなざしでみつめているところを見ていると、幽助はとてもせつない気分になってしまいます。そばにいて、笑うことをしない飛影の分まで笑ってあげたくなります。多くを語らない飛影のことを知るために、ずっとそばにいてやりたくなってしまいます。
 そんな不思議な気持ちを、飛影にうまく伝えることができないまま、幽助は長い時を過ごしてきたのでした。


 さて、幽助と雪菜の結婚話が持ち上がってから三日ほど経ったとある日、幽助が王宮の庭で昼寝をしていると、近寄る気配がありました。
 目を開くと、そこには見慣れた飛影のきついまなざしがあって、彼が握る剣のきっさきは、幽助の喉もとにつきつけられています。
「物騒なやつだな」
 幽助はあわてる様子もみせず、にっこりと笑いました。
 飛影の機嫌が最悪なことは、その表情ですぐにわかったけれど、そんなことよりも、飛影と二人っきりで話すことができる、という喜びの方が勝っていたのです。
「のんきに昼寝なぞしてるんじゃない」
「おれは昼寝もしちゃいけねぇのかよ」
「ふん」
 飛影は鼻先で笑うと、幽助を挑戦的なまなざしでみつめました。
「雪菜さんのことか?」
 幽助は軽く吐息をつくと、単刀直入に問いかけました。
 いくら傍若無人な飛影でも、これだけのことをする理由なんて、そうザラにあるものではありません。
「そうだ」
「やっぱりな」
 つまらなそうにつぶやく幽助を、飛影はキッとにらみつけました。
「おれはおまえと雪菜の結婚には反対だ! 誰がおまえなんかに雪菜を」
「おれだって結婚なんかしたかねぇよ」
「おまえ! 雪菜のどこが不満だ!」
 かっとなってわめく飛影を、幽助は苦笑いを浮かべながらみつめます。
「結婚したいって言ったら怒る。したくないって言っても怒る。一体、おれにどうしろっていうんだよ」
「そっ……それは……」
 幽助の実にもっともな反論に、飛影はおもわず口ごもってしまいました。
 うつむいて、困ったように眉根をよせる飛影のその姿は、なんだかとても愛らしくて、幽助は彼を抱きしめたくなってしまいましたが、飛影の剣のきっさきはあいかわらず幽助の喉もとにありましたので、彼は身動きすることができません。
「おれが嫌がっているのは、雪菜さんじゃない。結婚そのものだ。おまえだって、雪菜さんの結婚相手がおれだから嫌なんじゃなくって、雪菜さんの結婚そのものが嫌なんだろ?」
「そうかも……しれんな」
 飛影は彼にしてはごくごく珍しく、素直にうなずきました。
 彼は雪菜のことになると、驚くほど弱い面を見せます。
 幽助はそんな飛影が愛しくて……時折、ひどく腹立たしくなります。飛影の感情を誰よりも強く動かすことができる雪菜の存在が、妬ましくなってしまいます。
 わきあがる複雑な感情を押さえきることができなくて、幽助はふいに手を動かすと、飛影の剣の刃にそって、指をすっとすべらせました。
 幽助の右の人さし指の皮膚が裂け、紅い血がツーッと流れ出します。
「何をする!」
 飛影は驚いて剣を下ろしましたが、幽助は血が流れ出る指先をじっとみつめるばかりです。
「あいかわらずおめぇの剣はよく切れんなぁ」
 幽助は他人事のようにつぶやくと、寝椅子から上体を起こし、傷ついた指先を飛影の唇に押しあてました。
 その閉じられた紅い唇に沿って紅い血が流れ、黙ったまま幽助を凝視している飛影のあごをつたって地に落ち、赤黒いしみを広げていきます。
「おれの血も、おめぇの血も、同じ味だと思うんだけどなぁ……なんで、おれは王様なんかになんなきゃいけないんだろ」
 幽助のつぶやきに、飛影は驚いたように目をみはりました。
 そんな飛影の表情に、幽助がくすりと笑います。
「まぁ、血なんてあてになんねぇもんだよな。おめぇと雪菜さんがそのいい例だ」
「なんだと!」
 まなじりをつりあげた飛影は、再び剣を振り上げようとしましたが、その右手首を幽助は左手で押さえ込んでしまいました。
 スピードでは互角、技術では飛影が上ですが、単に腕力だけの問題ならば、幽助の方が上です。
 数分の格闘の末、剣は音をたてて飛影の手から離れ落ちてしまいました。
「おれを殺したいのなら、寝込みなんかを襲うなよ。どうせやるんなら、正々堂々と殺し合おうぜ」
 今までに見せたこともない幽助の威圧的な態度に、飛影は気圧されたようでしたが、すぐに気を取り直すといつもの強気な瞳で幽助をにらみつけました。
「寝込みを襲ったつもりはない」
「襲ったじゃねぇかよ」
「おまえはおれに気づいてただろ? だったら、寝込みなんかじゃない」
 飛影の言葉に幽助は目をまるくしました。
「……わかってたのか」
「あたりまえだ」
 飛影は吐き捨てるように言うと、幽助につかまれたままの手首を乱暴に振り払いました。
「その程度には信用している」
「そりゃどうも」
 幽助は気がぬけたように笑うと、飛影の顔をじっとみつめました。
「とにかく、雪菜さんのことはもう少し黙って見ててくれねぇか? なんとかまわりの連中を説得してみるからよ」
「……で、どうにもならなかった時はどうするつもりだ?」
「おれを殺せばいいだろ。そうすれば、自動的に結婚話は消滅だ」
 幽助のあっけらかんとした答えに、飛影はにやりと笑いました。
「いいだろう。期待して待ってるぞ」
「どっちを期待してるんだ? 雪菜さんの結婚話がつぶれることか? おれを殺すことか?」
「とりあえずは説得が成功することにだ。雪菜を王子殺しの男の妹にはしたくないからな」
 幽助の意味深な問いかけに、飛影は剣を拾い上げながら答えました。
「妹想いもそこまで徹底すりゃあ、たいしたもんだよ」
 幽助はつまらなそうにつぶやくと、寝椅子にごろりと寝転がりました。
 飛影が立ち去ろうと、くるりときびすを返すと、その背中をおいかけるように声が届きます。
「なぁ、飛影」
「……」
「どっかへ行きたいなぁ」
「どこへ……行きたいんだ?」
「それがわからねぇんだ」
「ふん。わけのわからんやつだな」
「おまえはどっかへ行っちまいたいと思ったことはねぇのか?」
「……雪菜を置いてはどこにも行けん」
「そういえばそうだった。……おめぇにとって、雪菜さんより大事なもんはねぇもんな」
 なぜか、とがめるような口調でそう言った幽助は、寝返りをうち飛影に背を向けてしまいました。
 そんな、物言いたげな幽助の背中をみつめ、飛影はペロリと唇を舐めました。
 幽助の血の味が口中に広がります。
「おまえの血はまずいぞ」
 飛影はそう言い捨てると、姿を消しました。
 幽助は再び寝返りをうち、飛影が立っていた空間をみつめながらつぶやきます。
「おめぇの血はうまいのかよ」
 飛影のからだに取り込まれた自分の血が、少しでも二人を近づけてくれればいいのに――そんなことを考えてしまう自分が、ひどく情けなく感じられて、幽助は横になったまま大きなため息をついたのでした。


 そんなごたごたがあって、結局、眠り直すことができなくなってしまった幽助は、やたらと重く感じる頭を抱えながら、私室に戻ってきました。
「どうしたんです? 元気がありませんね」
 そんな言葉で幽助を出迎えてくれたのは、国の重臣の一人である蔵馬でした。
 蔵馬は重臣たちの中でも最年少の者ではありましたが、その優れた情報収拾能力と、それよりもさらに優れた情報分析能力、そして、それを見事に活用してみせる行動力の持ち主で、国の第一の実力者であります。
 そして同時に彼は、幽助がもっとも信頼する、よき相談役でもありました。
「そんなに元気ねぇかな」
 幽助はつぶやくと、椅子にどっかと腰をおろし、ほおづえをつきながらぼんやりと蔵馬をみつめました。
 そんな動作の一つ一つが疲れきっていて、行動にきびきびとしたところがまったくありません。
「あたりまえですよ。そんなどんよりした目をして、何を言ってるんですか」
 蔵馬は苦笑まじりに答えると、幽助の正面の席に腰をおろしました。
「で、何で悩んでいるんですか? 雪菜さんの件ですか?」
 蔵馬の問いかけに、幽助は目をぱちくりとさせました。
「なんでわかるんだ?」
「わからないわけないでしょう」
 幽助のことならなんでもわかる、といった調子の蔵馬の返答に、幽助はバツが悪そうに頭をかきました。
「そっかなぁ……」
「雪菜さんについておもしろい情報を仕入ましたが、聞きたいですか?」
「聞きたい!」
 蔵馬の唐突な質問に、幽助は意気込んで答えました。
 なにせ、蔵馬の情報は信用できます。彼の辞書に、『ガセ』とか『デマ』とかいう言葉は存在しないとまで言われているのですから。
「雪菜さんには、ひそかにおつきあいしている殿方がいらっしゃるそうです」
 蔵馬がもたらした情報に、幽助はあぜんとしてしまいました。
「誰だ? その相手ってのは」
「貴方も知っている方ですよ」
「だから、誰だっていうんだよ!」
 じれる幽助をみつめ、蔵馬はくすりと笑いました。
「騎士団長の桑原です」
「なんだって~!」
 幽助はおもわず、椅子を蹴って立ち上がってしまいました。
 騎士団長の桑原は、幽助にとっては幼い頃からの喧嘩友達であり、幾多の戦場をともに駆け抜けてきた戦友です。
 あの不器用で照れ屋の桑原が、あの雪菜とおつきあいしてるなんて、想像の範疇を超えていました。
「それはまた……だいそれたことを」
 数秒の沈黙の後にしぼり出された幽助の言葉に、蔵馬は深くうなずきました。
「まったくですね」
「このことは飛影も知らないのか?」
「そうでしょうね。桑原団長がまだピンピンしているところを見ると」
「それは言えてるな」
 幽助は苦笑すると、椅子に座り直しました。
「するってぇと、雪菜さんはもう、飛影がいなくなっても一人ぼっちにはならないわけだ」
「?」
 独り言のようにつぶやく幽助を、蔵馬がけげんそうにみつめます。
 幽助はそのまま何事かを考えこんでいましたが、ふいに机に両手をドンとつき、すっくと立ち上がりました。
「よっし! 決めたぞ!」
「なにをです?」
「蔵馬。おれは王様にはならない。おれは旅に出たいんだ」
 幽助の宣言はあまりにも唐突で、しかも、とんでもない内容でありましたが、蔵馬は動揺したりしませんでした。
「思ったよりも、保ちましたねぇ」
「へっ?」
「貴方のことですから、一ケ月もすればそんなことを言い出すだろうと思っていましたが、十一ケ月も経った今になってとはね」
「じゃあ、おれがずっと悩んでいたことを、おめぇは知っていたのか?」
「貴方の器は大きすぎて、とてもじゃないけどあんな小さな玉座にはおさまりきりませんからね。いつかこうなることはわかっていましたよ」
 蔵馬はそう言って笑いましたが、その笑みがどことなくひきつっているように見えたのは、幽助の気のせいではありませんでした。
「なんで……黙ってたんだ?」
「貴方を引き止めるようなことはしたくないけれど、自分から突き放すようなまねもできなかったんです。すみません。これはおれのエゴですね」
 蔵馬はうつむくと、小さく頭をさげました。
「蔵馬……」
「少しでも長く貴方のそばにいたかったんです。そんなおれのわがままが、貴方の苦しみを長びかせました。けれどもう、ここらへんが潮時ですね。おれは貴方を失うことよりも、貴方でなくなった貴方のそばにいることの方がつらい」
 蔵馬の声と指先がかすかにふるえています。
 それは、彼の正直な気持ちを何よりも雄弁に伝えているように、幽助には思われました。
「すまねぇ……おまえは、おれなんかよりも、ずっとずっと苦しんでたんだな」
「いいんですよ。貴方はずっと自由な貴方でいてください。それだけがおれの望みです」
「あ……りがと」
 幽助はうなずくと、蔵馬の頭を胸元にそっとひきよせました。
 蔵馬は幽助の胸の鼓動を聞きながら、涙を一粒こぼしたそうです。


 その三日後、飛影は幽助に呼び出され、王宮内の王子の私室にやってきました。
 実は飛影はここにやってくるのは生まれて初めてです。なにせ、王子が生活しているこの部分は王宮の奥にあり、出入りを許されるのはごく一部の者に限られ、自由に出入りができる者にいたっては、蔵馬ただ一人でしたから。
 蔵馬に案内されて飛影が寝室に入ると、幽助はとびっきりの笑顔で彼を出迎えました。
 そんな幽助の服装を見て、飛影が驚きます。
「おまえ……そんな格好をして、どこへ行く気だ」
 幽助はしっかりとした皮の靴に、丈夫で軽い皮の服、腰には短刀をぶらさげて、そのかたわらには布袋が置かれています。
 どこからどう見ても、そこらへんに散歩に行くような服装ではありません。
「うん、旅に出ようと思ってさ」
「旅?」
「魔界の奥の奥まで行くんだ」
「何を考えてる! おまえは一ケ月後に戴冠式を控えた身だろうが!」
「戴冠式? そんなのパスに決まってんだろ。おれは王様なんかにゃ、なりたくねぇんだよ」
「何をいまさら」
 飛影は吐き捨てるように言うと、蔵馬に視線を向けました。
「おまえもおまえだ。何でこいつを止めない。こいつが王位を継がなければ、おまえも困るんじゃないのか?」
「確かに困りますね。おれはこの国の重臣ですから」
「だったら、なぜ……」
「ところがさらに困ったことに、おれにとっては国よりも幽助の方が大事なんですよ。だから、国の意向と幽助の意向では、幽助の意向を優先します」
「……」
 蔵馬を味方につけることに失敗した飛影は、顔をしかめました。そんな彼に幽助が声をかけます。
「おめぇらしくもねぇことを言うもんだな、飛影」
「なにがだ?」
「国がどうなろうと知ったこっちゃないのは、おめぇも同じだと思ってたぜ」
「そ……れは……」
「それに、おれがいなくなれば、雪菜さんとの結婚話も自然消滅だ。おめぇにとっては、願ったりかなったりな話だろ?」
「それは……そうだな」
 飛影はうつむきながら、自分を納得させようとしましたが、どうしても釈然としない部分があります。
 損になる部分はどこにもないとわかっていても、幽助の旅立ちを引き止めたがっている――そんな自分の気持ちが理解できないのです。
 真剣に考えこんでしまった飛影を、幽助はうれしそうにみつめました。
 実をいうと、それはいい考えだ、とっととどっかに行っちまえ、と飛影に言われるんじゃないかと、内心びくびくしていたのです。
 迷うようだったら大丈夫ですよ、と蔵馬は言ってくれてましたから、幽助は彼を信じて、飛影に重大な言葉を告げることにしました。
「でさ、飛影。おれと一緒に行かねぇか?」
「な……んだと?」
 幽助の唐突な提案に、飛影がおもわず目をむきます。
「おれと一緒にどこまでも行こうぜ。きっとおもしれぇことがある。絶対に後悔させねぇからよ」
 幽助はその両肩に手を置きながら、熱心に飛影をかき口説きました。
 そのあまりもの迫力に、珍しく飛影が圧倒されています。
「なっ、頼むよ。おめぇと一緒に行きてぇんだよ」
 幽助の思いもかけない提案と熱っぽさに混乱を隠しきれず、飛影は肩をゆさぶられるままになっておりましたが、ふと、その脳裏に愛しい妹の姿が浮かびあがりました。
 そうです。飛影には守らなければならない、大事な妹がいるのです。
「断る!」
 飛影は鋭く叫ぶと、幽助を突き飛ばしました。
「飛影?」
「おまえなんか、どこでも好きなところへ行ってしまえばいい! おまえの気まぐれにおれを巻き込むな!」
「気まぐれなんかじゃねぇよ! おれは真剣だ!」
「だったら、一人で行けばいいだろう。なぜ、おれがつきあわねばならんのだ」
「なぜって……飛影と離れるのが嫌だからに決まってるじゃねぇか」
「!」
 幽助のあっさりとした返答に、飛影はおもわず顔を朱に染めました。
 なぜ、この王子がそんなことを、何のてらいもなく口にすることができるのかが、飛影にはまったくわからないのです。
「だっ……だったら、旅に出るのをやめればいいだろう」
「だけど、旅に出たいんだよ、おれは」
「わがままを言うな! どちらかにしろ!」
「いやだ!」
 幽助はあくまでも強硬な態度を崩そうとしません。
 幽助はずっとあきらめようとしていました。けれど、何もあきらめられませんでした。だから、もう何もあきらめないことにしたのです。
「おれはおまえと一緒に行きたい。一人で旅するなんてさびしいよ。おまえと二人なら、きっとさびしくない。きっとうれしくってしかたない」
「一人で行きたくないんなら、蔵馬あたりを連れてけばいいだろ!」
「おや? 本気でそんなことを言っているんですか?」
 黙ってことのなりゆきを見守っていた蔵馬が、ふいに口をはさみました。
「本当にいいんですか? おれが幽助と一緒に旅に出てしまったら、貴方はもう二度と幽助に逢えなくなるかもしれないんですよ? それで貴方は本当に後悔しませんか?」
「何が言いたい!」
「おれだって喜んで幽助を送り出すわけじゃないんです。幽助がおれを選んでくれるのなら、おれは喜んで幽助についていきます。けれど、幽助は貴方を選びました。だからおれは、いつか幽助がここに帰りたくなった時、彼をきちんと出迎えてやれるように、この国を守っていこうと決意したんです」
「蔵馬……」
「幽助を一人にしないでやってください。お願いします」
 蔵馬は飛影に深々と頭をさげました。
 蔵馬にそんなことをされたのは、これが初めてで、飛影はとまどってしまいました。
 幽助もその横で、神妙な表情をしています。
「けれど……おれには雪菜が……」
 飛影はギュッとこぶしを握りしめながらつぶやきました。
 雪菜のことを考えていなければ、うっかり幽助についていってしまいそうな気分になってきたのです。
「雪菜さんのことなら、問題ねぇよ」
「えっ?」
 幽助の言葉に飛影が目をまるくしました。
 蔵馬はそんな飛影を見てくすりと笑うと、扉をパタリと開けます。
「雪菜! なんでこんなところに……。それに桑原まで……」
 扉口になかよく並んで立っている雪菜と桑原を交互に見比べ、飛影はあっけにとられてしまいました。
 雪菜は一瞬、哀しげに瞳を伏せた後、飛影に駆け寄ると、真摯なまなざしで兄をみつめました。
「兄さん。ごめんなさい。私、ずっと兄さんに隠し事をしてたんです」
「隠し事?」
「私……私……一年も前から、和真さんとおつきあいしてたんです」
 わずかにためらった後、雪菜は声をふりしぼるようにして、真実を告げました。
 雪菜にとって兄の存在は絶対であり、その兄に一年以上も隠し事をしていたという事実は、彼女に多大なプレッシャーを与えていました。けれど、彼女はどうしても、自分を過ぎるほどに大事にしてくれる兄に、兄と同じくらい大事な男性がいるということを、告白できずにいたのです。
 けれどもうこれ以上、逃げ続けるわけにはいきません。
 雪菜は飛影を開放してあげたいのです。
 飛影には自分のことなんか気にしないで、好きな道を歩んで欲しいのです。
「…………」
 飛影はあまりといえばあまりのことに、声もでません。
 ずっと雪菜のそばにいたはずなのに、その変化にちっとも気づいてやることができなかったという事実と、雪菜にとって自分だけが頼りなのだという確信が崩れてしまった衝撃に、パニック状態になってしまっていたのです。
 そんな、呆然として立ち尽くしている飛影の前に桑原が歩み出て、両ひざと両手を床につき、深々と頭をさげました。
「おれは雪菜さんを愛してます。結婚したいんです。お願いします。許可をください」
 額を床にこすりつけるようにして、桑原は大声で飛影に懇願しましたが、その声にわずかな脅えの色が含まれていることは隠しようもありません。
 なにせ、飛影の強さと、その過激な性格と、妹への溺愛ぶりは、国中の評判でありましたから。
「今まで……」
 ようやくしぼりだされた飛影の声は、それとわかるほどにふるえていました。
「今まで、おまえらで勝手にやってきたんなら、これからも勝手にやればいいだろう!」
「兄さん!」
 飛影の悲痛な叫びに、雪菜はおもわず兄にしがみついてしまいました。
「ごめんなさい! 私が悪かったんです! 私が勇気を出すことができなくて、和真さんに頼み込んで、黙ってもらっていたんです。和真さんは悪くありません。悪いのは全部、私なんです」
「雪……菜……」
「兄さんが大好きです。私を誰よりも大切にしてくださいました。兄さんがいなければ、私は今まで生きてこれませんでした。だけど……だけど……和真さんが好きなんです。それだけはわかっていただきたいんです」
 飛影の胸にすがりながら、雪菜がポロポロと涙をこぼすと、カランカランという音をたて、床に氷泪石が転がりました。
 涙が至高の宝石となる雪菜は、幼い頃からどんなことがあっても泣かない娘でした。その雪菜が大粒の涙をこぼしながら、飛影の背に両腕をまわして泣いています。
 それは、飛影に重大な決断をさせるに足る、重大な事件でした。
「おれは……おまえを苦しめていたのか?」
「そんな!」
「けれど、おまえは泣いている」
「これは違うんです。私は……」
「おまえはおれと違ってやさしいからな」
 飛影はつぶやくと、雪菜の頭をなでました。
 誰よりも慈しんできた妹です。誰よりも幸福になって欲しい娘です。その雪菜を、これ以上、困らせることなんてできません。
「おい! 幽助!」
 飛影は雪菜を胸に抱いたまま、幽助を呼びました。
「不本意ではあるがおまえらの策にのせられてやる」
 飛影の言葉に、幽助は顔を輝かせました。
「じゃあ、おれと一緒に行ってくれるのか?」
「ここにいると、桑原を殺しちまいそうだからな」
「兄さん……」
 飛影の物騒な発言に、おもわず雪菜が顔をあげました。
「安心しろ。おまえを二度と泣かせやしない」
 飛影は雪菜をそっとひきはなすと、両ひざを床についたまま、事の成り行きを見守っている桑原の前に立ちました。
「おれはおまえなんか信用していない。雪菜を信用しているだけだ。それだけは承知しておけよ」
「飛影……」
「おまえなんか大っ嫌いだ!」
 飛影は吐き捨てるように言うと、くるりときびすを返しました。
 桑原はそのさびしそうな背中をみつめ、また、深々と頭をさげました。
「ありがとうございました!」
 今の桑原には、それしか言うことができません。
 飛影の雪菜に対する気持ちの真剣さは、自分でさえ勝てないような気がしたのです。
 飛影は桑原の声など聞こえぬふりで、雪菜の元に戻ると、ふいにしゃがみこみ一粒の氷泪石を拾い上げました。
「これだけもらっていくぞ、雪菜」
「兄さん……行ってしまうんですか?」
「おれは二番はいやなんだ」
「二番だなんて……そんなこと……」
「桑原と同じ一番なんてのもごめんだぞ」
 飛影は苦笑を浮かべると、視線を転じ、幽助をみつめました。
 その瞳には、今までに見せたこともないような、明るくて力強い輝きが宿っています。
「おまえはおれが一番なんだろう? 幽助」
「もちろん!」
 幽助は満足そうにうなずきました。
 飛影にとっての一番が雪菜であってもかまいません。自分にとっては飛影が一番で、その一番が長い旅路を共にしてくれるのですから。
「ずーっとずーっとおまえだけが一番だ。安心してそばにいてくれていいんだぜ」
 幽助の宣誓に、飛影はおもわず顔をあからめると、プイと視線をそらしました。
「余計なことは言わなくてもいい。……さっさと出発するぞ」
「ああ」
 幽助が布袋を肩に担ぎ、テラスに続く扉を開けると、そこでは大きな翼を持つ幽助の霊界獣プーが、主人をお行儀よく待っていました。
 幽助はプーの首をやさしくなで、やわらかな羽毛に頬ずりします。
「長い旅になるけど、よろしくな。プー」
「プー」
 プーはまかせておけとばかりに、翼を大きく広げ、幽助の要請に応えました。
「兄さん」
 雪菜は心配そうに飛影をみつめました。
 飛影も愛しげに雪菜をみつめます。
「雪菜……どんなことをしてでも生きろよ。おれが望むのはそれだけだ」
「はい。兄さんもお元気で」
 こくりとうなずく雪菜に、飛影は小さくうなずきかえすと、さっと身を翻しプーの背に飛び乗りました。
 幽助はプーの首に手をおいたまま、蔵馬と向きあっています。
「おれのために苦労させちまうな」
「わかっているのなら、こんなことさせないでくださいよ」
「本当にすまねぇと思ってる」
「いいんです……おれも飛影と同じです。貴方が生きてさえいてくれれば、それで十分です」
「ああ、おめぇも元気に生きてろよ」
「もちろんです。気が向いたらここに立ち寄ってくださいね。百年でも千年でも待っています」
 蔵馬は笑顔を浮かべましたが、そのさびしげな色は隠しようもありません。
 幽助にもそれはわかっていましたが、一度、火がついてしまった自由への憧れも、今さら消しようがないのです。
 幽助は黙ったまま蔵馬に頭をさげました。その髪をプーがくちばしでつつきます。
「そうだな。行こうか、プー」
 幽助は笑うと、プーの背中をみあげました。
 そこでは、飛影がそのきついまなざしを幽助に向けています。
「後悔なんかしねぇさ」
 幽助は飛影をみつめつぶやくと、プーの背に飛び乗りました。
「行くぜ! 飛影」
「ぐずぐずしてるのはおまえの方だ」
 そうして二人は蔵馬と桑原と雪菜に見送られながら、二人だけの王国を求めて旅立ったのでした。


 さて、この件について、後の歴史書はこう記しております。
 戴冠式を一ケ月に控えた王子は、国一番の剣士との道ならぬ恋をあきらめきれず、ついに二人は国と地位を捨て、いずこかへ去ってしまったのだ――と。
 けれど、それが事実かどうかを聞こうにも、王子と剣士の行方は杳として知れません。

めでたしめでたし

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