王子と剣士の物語2


 幽助と飛影が国を出てから、一ケ月、経ちましたが、二人はそれなりにうまく折り合って、快適な旅を続けておりました。
 プーに乗って空を飛び、時折、地上に降りて狩りをしたり、剣や格闘技の訓練をしたり、探検をしたり――幽助はそんな毎日が楽しくてしかたありません。
 国に残してきた人々のことを想って、ちょっと寂しい気分になることもありますが、どんな時でも飛影が目の届くところにいるという現在の状況は、幽助にとってこれ以上のことは望めない、というほどうれしいものであったのです。
 そして、そんな起伏にとんでいるように見えて、実はとっても平穏な生活の中で起こったその事件の発端は、食料採取のために足を踏み入れた森の中で起こりました。
「飛影。この実、見たことあっか?」
 声をかけられた飛影は、振り返り幽助がつまんでいる小さな赤い実をじっとみつめました。
「いや、見覚えはないな」
「ふーん、食えんのかなぁ」
「危ないからやめとけ」
「でも、すっげぇうまそうな匂いがすんだよな」
 幽助は赤い実を鼻先に持っていくとクンクンと匂いを嗅ぎ、飛影が忠告したにもかかわらず、パクリとそれを呑み込んでしまいました。
「幽助!」
「うーん。やっぱりうめぇぜ」
「毒でもあったらどうするつもりだ」
「大丈夫。多少の毒でやられるようなおれじゃねぇよ」
 あっけらかんとして答える幽助を、飛影はあきれ顔でみやりました。
「腹をこわしても看病なんかしてやらんからな」
 そして、後に飛影はこの自分の台詞を、苦々しく思い出すことになるのです。


 その夜、飛影はプーの鳴き声で目を覚ましました。
「うるさいぞ、プー」
 飛影はひじをついて上体を起こすと、うずくまり不安気な鳴き声をあげているプーをみやり、そのただならぬ様子に、緊張した面持ちで立ち上がりました。
 飛影が近づくと、プーはその片翼を持ち上げ、その下で背をまるめ苦しげに息をついている幽助の髪をくちばしでつつきました。
「幽助! おい、どうした」
 驚いて駆け寄った飛影に声をかけられ、幽助はうっすらと目を開きました。
「すまねぇ……起こしちまったか?」
 幽助のかすれ声に、飛影が顔をしかめます。
「この馬鹿! なんでもっと早くにおれを起こさなかった」
「迷惑……かけたくなかったんだ」
「迷惑なら国を出る前からかけられ通しだ。これ以上、増えたところでたいした違いはない」
「ははっ……それは言える……」
 幽助はなんとか明るい調子で答えようとしていますが、弱々しい声と冴えない表情は隠しようがありません。
「で、どんな具合なんだ?」
「ちょっと……息が苦しい……それと手足が痺れちまって……」
「熱もあるようだな」
 幽助の額に手をあて、飛影が不愉快そうにつぶやきます。
「……昼間のあの実が原因か」
「やっぱり……そう思うか?」
「あたりまえだ。おまえみたいな体力だけが取柄のやつがこんなになる原因なんて、そうそうあるもんじゃない」
「誉められてんのかな……それ」
「おまえときたら育ちだけはいいくせに、食い意地がはってるからな。いったい、蔵馬はどういう教育をしてたんだ」
 国王の一人息子として生まれた幽助は、事実上、蔵馬に育てられました。
 冷静な判断力と明晰な頭脳、底なしの記憶力、すみずみまでいきわたった気配りを誇る蔵馬は、未来の国王である幽助の最高の教育係であり側近であると皆に思われておりましたが、飛影に言わせればその数々の長所も最大の短所でチャラになります。つまり、蔵馬は幽助に対してとことん甘かったのです。
「あいつはおまえを甘やかしすぎた。技術面はともかく、精神的な危機管理がまったくできとらん」
「そんなんじゃねぇよ。……いくら蔵馬でもおれの性格は変えられねぇからな」
「ほう……とりあえず自分が悪いという自覚はあるわけだ」
「…………」
 飛影の冷やかな言葉に、幽助はおもわず沈黙してしまいました。
「自覚があるのなら、薬を飲んで、自分の馬鹿さかげんを反省しながら、おとなしく寝ろ!」
 飛影の怒鳴り声に、幽助はおもわず首をすくめました。
「すまねぇ。一晩、寝たらきっと治るから、心配しないで寝てくれ」
「あたりまえだ」
 飛影はそっけなくそう答え、自分の寝袋にもぐりこんでしまいましたが、その夜、たびたび額の汗をぬぐってくれるやさしい手の感触を、幽助はしっかりと感じ取ることになったのでした。


 幽助が赤い実を食べてから二日が過ぎましたが、具合はちっとも良くならず、それどころかどんどん悪くなっているようでした。蔵馬に持たされていた熱さましの薬を飲ませても熱は下がらず、食事も満足にとることができません。
 幽助は飛影に心配をかけまいとしてか、痛いとも苦しいとも言わず、ただ背をまるめて眠り続けています。そして、時折、目を開いてはそこに飛影がいることを確認し、安心しきったような笑みを浮かべると「心配するな」、「大丈夫」と声をかけ、また眠りに落ちてしまうのでした。
 飛影は黙って幽助のそばに座っています。
 幽助はいつも必要以上に元気なので、今、目の前に力なく横たわる幽助はまるで別人のようです。
 それでも、いつも自分をみつけるたびに本当にうれしそうに笑う幽助は、こんな時でもやっぱり自分を見て本当にうれしそうに微笑むので-それがうれしくてつらくて仕方ありません。
「なぜ……おまえはこんな時に何の役にもたたないおれを選んだんだろうな……。蔵馬ならきっと、すぐにおまえを苦痛から解放してやれるだろうに……」
 飛影は幽助をみやりながらつぶやき、旅立った時の蔵馬の言葉を思い出しました。
 本当は自分がついていきたいのだ、と率直に告白し、そのうえでなお、幽助についていってやってくれ、と自分に向かって懇願した蔵馬の言葉の重さが、今になって肩にずっしりとのしかかってきたような気がします。
 博識で、ことに植物についての知識は魔界一とも言われる蔵馬ならば、幽助が食べた赤い実の正体も知っているはずですし、当然、その対処法も知っているでしょう。それなのに、今の自分にできることといえば、ただそばに座って幽助が目を開いた時に、まだ自分はそばにいるのだ、ということを知らせてやることだけなのです。
「おまえが死んだら、おれは間違いなく蔵馬に殺されるな」
 飛影は薄く笑うと、幽助が眠り込んでいることを確認し、その横でぐったりとなっているプーのかたわらにしゃがみこみました。
 プーは幽助の気を糧として生きる特別な生き物なので、幽助の不調はそのままプーの不調になるのです。
「プー」
 声をかけるとプーは力なく首をもたげ、飛影の胸に甘えるようにして頬を擦り寄せました。
「おまえには幽助の苦しみがわかるんだな」
 飛影はプーの首に腕をまわし、やさしくなでてやりました。
「おまえは……幽助に絶対に置いていかれないんだな」
 幽助が死んだら、その気を受けて生きているプーも死んでしまいます。
 そんな、幽助とその命を分かち合っているプーが、どういうわけだか今の飛影にはうらやましくてなりません。
「あいつは……絶対におもしろいことがあるから、と言っておれを国から連れ出したんだぞ。それなのに、この状況はどうだ……おもしろくもなんともない!」
 プーの首にしがみつき、飛影はうめきました。
 幽助が死んだら、プーも死に……残されるのは飛影一人です。
 そうなった時に自分はどうすればいいのかを、飛影は昨日からずっと考えていました。けれど、幽助が死ぬ、ということを考えるだけで、頭の中が混乱してしまって、どうしてもその先を考えることができなかったのです。
 だから、もうそのことを考えるのはよすことにしました。今は打てるだけの手を打つだけです。
「プー、おまえが弱っているのはわかっている。けれど……王宮に戻って、このことを蔵馬に伝えてくれないか?」
 飛影の頼みに、プーはちょこんと首を前に倒すと、両の翼を大きく広げて見せました。
「おまえも出来の悪い主人を持って苦労してるな」
 プーの力強いアピールに、ちょっとさびしげな笑みを浮かべた飛影は、その首に幽助が食べた赤い実と手紙を入れた布袋をかけてやると、頭をやさしくなでてやったのでした。


 幽助の具合は、いよいよ悪くなってきました。
 飛影はいつ寝ていつ起きているのかも、自分でわかっていないほどで、ただ弱っていくだけの幽助を凝視している自分がひどく情けなくなくて、どうしようもない自己嫌悪にどっぷりとひたっています。
「ひ……えい……」
 ふいに幽助がうめき、飛影の服のはしをつかみました。
「どうした?」
 尋ねながら飛影は、幽助の顔をのぞきこみます。
「だい……じょうぶか?」
「?」
「ちゃんと……食べ……てるか? ……寝て……ないんじゃない……のか?」
「ばっ……馬鹿か、おまえは!」
 幽助の言葉に、おもわずその顔をのぞきこんだままの体勢で飛影が怒鳴り、ふと我にかえるとしぶい表情で口許に手をやりました。
「いや、確認する必要もない馬鹿だったな、おまえは」
 飛影の憎まれ口に、幽助がわずかに口のはしをつりあげます。
「よかった……ちゃんと元気……だな」
「あたりまえだ。おれはおまえと違って用心深いんだ」
「すまねぇ……おれ……足手まといになってる」
「確かに、これ以上はないほどの足手まといだな」
「おれを……置いていっても……いいんだぜ……」
「馬鹿を言うな」
「飛影?」
「こんなとこまで連れてこられて、ここから先、一人でどこへ行けっていうんだ。今さらみっともなくて国にも帰れないし、たとえ帰ったとしても蔵馬に殺されるのがオチだぞ」
「ははっ……」
 幽助は笑うと、また目を閉じてしまいました。
 飛影はなおも幽助の顔をのぞきこみながら、じっと考え込んでいます。
 いったい、誰のせいでろくに食事ができなくなっているのか、眠ることができなくなっているのかを本当にわかっているのかと、もう少しで叫んでしまうところでした。けれど、それを口にしてしまったら、負けてしまうような気がしました。
 何に負けてしまうのかは、本人にもわかりませんが、とにかくそれは飛影にとって絶対に口にしてはならない言葉だったのです。
「まったく……おまえはおれを困らせるために存在してるんじゃないのか?」
 小さくつぶやいた飛影の頬に、ふいに何か熱いものが触れました。
「なっ……」
 見ると幽助が飛影の頬を両手で包んでいます。
「なにをしているっ!」
「やっぱり……いたんだ……」
「?」
「気配がするのに……見えないから……」
 そうつぶやいた途端に、幽助の手がパタリと落ちました。
「おいっ! 幽助っ! おまえ、本当に見えてないのかっ!」
 飛影は幽助の頬をペタペタと叩きましたが、幽助はピクリとも動きません。
「おい! 答えろ! おれが呼んでるんだぞ!」
 幽助の手首をつかんだ飛影は、その手を自分の頬におしつけました。幽助に自分はここにちゃんといるのだということを、思い知らせてやりたかったのです。
「このおれが呼んでいるのに……なぜ、答えない……」
 思い返してみれば、飛影が幽助の声に答えないことはあっても、幽助が飛影の声に答えなかったことは、一度たりとしてありませんでした。それは、幽助にとっても飛影にとっても、ごくあたりまえのことだったのです。
 でも、飛影はこの時、初めて知りました。
 幽助が自分の声に答えてくれないと、世界中でひとりぼっちになってしまったような気分になるということを。
「答えろ……幽助……」
 飛影は幽助の手首を握りしめたまま、そのかたわらにうずくまり、そのまま動こうとはしませんでした。
 今の飛影を動かすことができるのは、幽助の声だけでしたから、彼はその場から動くことができなかったのです。


 肩をトントンと叩かれて、飛影はバッと顔をあげました。
「眠ってたのか……」
 飛影は頭を軽く振りながらつぶやきました。
 どうやら、不眠不休の疲れが、ここに来てドッと出てきたようです。
「ええ、ぐっすりと眠っていましたね」
 あるはずのない返事に驚いた飛影が振り返ると、そこにはあきれ顔の蔵馬が立っておりました。
「蔵馬っ! なんで、おまえがここにっ!」
「貴方が呼んだんでしょうが」
「…………」
 蔵馬の至極当然な返答に、飛影はおもわず赤くなりました。
「相当、疲れてますね。……無理もないですけど」
 蔵馬はつぶやくと、幽助の手首をしっかりと握りしめている飛影の指を、さりげなくはがしました。
 その動作に飛影の顔がさらに赤くなります。
「こっ……これは……その……」
「おれがどんな気持ちでここに来たかわかりますか? それなのに、ようやくたどりついてみれば、貴方は幽助の手首を握って気持ちよさそうに眠っているんですからね。おれには怒る権利があると思いますよ」
「きっ、気持ちよく眠ってなんかいないぞ」
「そうですか? まぁ、貴方のことですから、かなりせっぱつまってのことだったのは確かでしょうね」
「せっぱ……つまってなんか……」
「いたでしょう」
「…………」
 あっさりと断言され、返す言葉もない飛影は、蔵馬から視線をそらし、幽助をみつめました。
「幽助は?」
「もう大丈夫です。特効薬を飲ませました。幽助のことですから、あと三日もすれば動けるようになるでしょう」
「そうか……後遺症とかは……残らないのか?」
「後遺症?」
「目は見えるようになるんだろうな」
「目が見えなくなったんですか?」
「ああ」
「本当に……危機一髪だったんですねぇ」
 蔵馬はつぶやくと、前髪をかきあげました。
「それはこの毒の末期症状ですよ」
 ハァッと深く息をついて幽助をみつめる蔵馬のまなざしは本当に愛しげで、飛影はバツが悪くなってしまいました。
「でも、幽助でなければ、とっくに死んでいましたよ」
 そう言って、自慢気に微笑む蔵馬を見て、今度は飛影が深く息をつきました。
「まったく……おまえは幽助に甘すぎる」
「それはお互いさまだと思いますが」
 蔵馬は飛影をみつめると、意地の悪い笑みを浮かべました。
「でも、貴方はおれよりもずーっと恵まれた立場にいるんだってことだけは、しっかりと肝に銘じておいてくださいよ」
「こんな立場でよければ、いつでも交代してやるぞ」
「説得力ありませんよ。眠っている幽助の手を握って泣いてたくせに」
「なっ、泣いてなんかいないぞ!」
「認めたくないのなら、それでもいいですけどね」
 蔵馬はしれっとして答えると、飛影の背中を軽く叩きました。
「さて、もうそろそろ帰らなくては」
「幽助と……話さなくていいのか?」
「顔が見れたからいいです。それに、事情を説明せずに王宮を飛び出してきたものでね。早く帰らないと……」
「そうか」
「薬を置いていきますから、幽助にちゃんと飲ませてくださいね。それとプーは王宮で休ませています。元気になったらすぐに放してやるように言ってありますから、幽助さえ元気になればすぐに戻ってくるはずですよ」
「世話がやけるな」
「だから、世話がやけるだけおれよりマシだと言ってるでしょうが」
 蔵馬は苦笑すると、乗ってきた騎乗獣の背に乗り、飛び立ってしまいました。
 飛影は蔵馬の背を見送った後で、眠る幽助に視線を転じます。
「おまえの世話をやくために旅に出たわけじゃないが……おまえがいなければ旅に出ることもなかったんだな」
 そうつぶやいて、つまさきで幽助の足を軽くけっとばした飛影の目は、かすかに笑っておりました。


 蔵馬の予言通り、幽助は三日で元通りになりました。
「ん~っ! やっぱり健康っていいよなぁ」
 大きく背伸びをしながら気持ちよさそうに言う幽助の横で、飛影は顔をしかめます。
「ふん。少しは反省したか?」
「したした」
「ちっとも反省しているように見えん」
「え~っ、そんなことねぇぜ」
 幽助は笑うと、飛影をみつめ、ふいにペコリと頭を下げました。
「ありがと」
「?」
「ずっとそばにいてくれただろ?」
「…………」
「すっごく苦しかったけど、すっごく幸せだったんだ。……おれ、やっぱり飛影と旅に出られてよかったな」
「……蔵馬は泣いているようだぞ」
「うん、わかってる。でも……おれにはこうすることしかできなかったから。せめて精一杯、おれらしく生きようと思って……」
「ふん……一応、考えてはいるんだな」
 ちょっとせつない表情を浮かべた幽助から目をそらした飛影は、遠くに視線を投げ、ふいに目を見開きました。
「どうやら、明日には旅を再開できそうだ」
「ん?」
 飛影が指差した方向をみやった幽助は、自分めがけて飛んでくる大きな白い翼をみつけ、目を輝かせました。
「プー!」
 手をぶんぶんと振りまわす幽助と、ならんで空を見上げている飛影を、みつけたプーの鳴き声が森中に響き渡ります。
 これで、すっかり元通り――明日から新しい旅が始まります。

めでたしめでたし

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