誰も覚えていない 遠い昔
すすきの原で鳴いていた子狐は
今 どこで泣いているのか


 夏山――それも国内のたいして高くない山――で遭難するヤツは、間抜けなんだと思っていた。
 自分がこうやって遭難するまでは。
 ハイキング気分で出かけた日帰りの登山、しかも晴天。正真正銘の登山初心者とはいえ、遭難する可能性なんて、考えもしなかった。
 しかし、谷底をのぞきこもうとして、身を乗り出しすぎて足をすべらせ転落し、川べりでうずくまってるなどという、とんでもない事態は事実として受け止めるしかない。骨折なのかねんざなのかはわからないが、右足首が痛くて歩けないことも含めて。
 持っていた携帯電話は見事に壊れている。動いていても圏外で使えなさそうな気はするが。
 連れはいないし、誰かが通りがかるような場所とも思えないから、帰らない息子を心配した親が、捜索願いを出してくれるまで待つしかないだろう。
 それまで、自分が保てばいいのだが、持っている食料といえばチョコレートだけ。唯一の救いは、目の前が川なので、水には困らないということだ。
「心配かけちゃうな……」
 でるのは独り言とため息ばかり。
 心配症の親だから、きっと大袈裟に騒ぎ立てるだろう。母さんは泣くかもしれない。
 母さんを泣かせると、すごく悲しむ人がいるのに……。
「まずいよな……」
 見上げると、満天の星空。
 こんな状況でも、きれいなものはきれいだけれど、心細いし、足は痛いし、腹はへるし、山はまっくらで気味悪いしで、のんきに空を眺める気分にはなれない。
 ふっと視線を落とすと、その途中で、何かがひっかかった。
「え?」
 あわてて、視線をあげると、遠くの方にボウっと白く光るものが見える。
「蛍?」
 にしては、大きすぎる。それになんだか、人の形をしてるような気が……。
 白く光る人影は、どんどん近づいてくる。
 動きからして、歩いているようなのだが、ここの周りはほとんど急斜面のはずで、そんな足場の悪いところを、あんなにスムーズに歩けるものなのだろうか?
「幽霊?」
 けれど、不思議と怖い感じがしない。
 とんでもない状況の連続に、感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。
 白い影は、一メートルほどの間を置いて立ち止まった。
 それは、まっ白いシーツみたいな服を身にまとった男だった。
 身長ニメートル近くあるんじゃなかろうかという、やたらと色白でハンサムなその大男は、人間のようだけど、なんとなく雰囲気がおかしいし、よく見ると猫みたいな耳としっぽがついている。
 こんな場所でコスプレ……のわけはない。
「誰?」
 なんでこんなに落ち着いているのかわからない。
 だけど、目の前のあやしくないところなんかひとかけらもない男から、悪い印象は受けなかった。
「狐」
 低い声が簡潔に答える。
 人間かどうか、人間だったら日本人なのかどうか、はわからないけど、会話はできるらしい。
「キツネ?」
「これでも昔は普通の狐だった。それが、よっぽど業が深かったのか、執着が強かったのか、こんな姿になって生き延びている」
「……狐の妖怪ってこと?」
「ああ」
 『狐』は無表情にうなずくと、こちらに二歩ほど近づき、右ひざをついてうずくまった。
 おもわず身がちぢこまったが、『狐』はかまうことなく、おれの右足首に巻いてあった、濡れタオルをはぎとった。
「いたっ!」
 おもわずうめいたら、すまない、と小さな声で謝ってくる。
 妖怪は意外と礼儀正しい。
「折れてはいないな」
 つぶやきながら、どこかから取り出した、薬とおぼしきものを塗ってくれた。
 その途端に、痛みがピタリとおさまる。
「すごいっ。痛くないっ」
 感嘆すると、『狐』は当然だという顔をしてすましている。
「他は大丈夫か?」
「はい」
「気をつけろよ。おまえに何かあったら、心配してくれる者もいるんだろう?」
「はあ……あの……」
「なんだ?」
「この山に棲んでいるんですか?」
「おれの棲み処はもっと遠いところだ」
「じゃあ、なんでここにいるんです?」
「妖怪だって散歩ぐらいするさ」
 妖怪を前にして、こんなに落ち着いて、普通の会話をしている自分がおかしい。
 だいたい、なんでこの妖怪はこんなに親切なんだろう。
 そんなことを考えているのが相手に通じたのか、『狐』がおれの顔を覗き込んでくすりと笑った。
「おれは怖くないか?」
「普通、怖いですよね……やっぱ」
「そうだな」
「なんでかな……怖くない人のような気がします……って人じゃないんだっけ」
 まぬけなことを言ったら、それがうけたのか、『狐』が笑った。
 銀色の髪がゆれて、ふわりといい匂いがする。
 この匂いを知っている……どこかで……。
「あれ?」
 なにかがひっかかる。
 なにかすごく重大なことに、気づかないでいるような気がする。
 考え込んでいたら、『狐』はいつのまにか立ち上がって、おれを見下ろしていた。
 その複雑に表情がまざった、だけど穏やかなまなざしに見覚えがある。
「……秀兄ぃ」
 無意識にこぼれ出た名前に、『狐』が目をみはる。
「あれっ? なんで? えっ?」
 自分で自分の言った言葉に驚いて、うろたえていると、ふいに眠気におそわれた。
 懸命にがんばったけど、目をあけていられず、眠りにひきずりこまれる。
「ありがとう」
 途切れかけの意識の中、そんな言葉を耳が拾った。


 目を開いたら、見知らぬ部屋にいた。
 横になったまま、きょろきょろとあたりを見渡して、ここは病室らしいと結論を出す。
「えっと……」
 どうしてこんなとこにいるのか、記憶をたぐりよせていると、ドアの開く音がして、母さんが入ってきた。
「秀一くん。いつ起きたの?」
 目を開けているおれをみて、母さんがかけよってきた。
「今さっきだけど……」
「気分はどう? 痛いところはない?」
「大丈夫だけど……」
「よかった……警察から連絡を受けた時は本当に驚いたのよ」
 母さんの話によると、おれは山道で倒れているところを、通りすがりの車に発見され、持ち物から身元を割り出され、親に連絡がいったらしい。
 足をすべらせて斜面をころげおちたとこまでは憶えているが、それから先の記憶がまったくない。
 けれど、あの場所から落ちて、どうやって自動車道に出られるんだろう? 憶えていないけれど、自力で移動したんだろうか?
「そういえばね。今しがた、秀一くんをみつけてくださった方にご挨拶してきたんだけど、その方がすごく不思議がっていらっしゃったのよ」
「なにを?」
「車で外出して家に帰る途中で、山の方で白いものが光っているのをみつけたんですって。それで、何が光ってるんだろうと思って、見に行ったら、秀一くんが倒れていたそうよ」
 白い光……なんかひっかかる……。
「秀一くんのお母さんが、助けを呼んでくれたのかもしれないわね」
 母さんの言う「秀一くんのお母さん」というのは、おれを産んでくれた母さんのことだ。
 ずいぶんと昔に死んでしまって、親父が再婚してできたのが今の母さんというわけだ。
「……違う」
「えっ?」
「違うような気がする……」
「なにが?」
「おふくろじゃなくって……あれ?」
 なんだかすっごく重大なことを忘れているような気がする。
「とにかく、秀一くんが無事で本当によかったわ。秀一くんにまでなんかあったら……」
 母さんが最後まで言えなかった言葉の続きは、わかりきっている。
 母さんには、血をわけた本当の息子がいた。
 おれの義理の兄となるその人は、偶然にもおれと同じ名前だったが、三年ほど前に急死してしまった。
 とても頭がよくて、顔がよくて、穏やかで、やさしくて、みんなに好かれていて、母親を大切にしていて……何ひとつ欠点がみあたらない、誰もがうらやむ出来のいい息子だった。
 親同士が再婚した時は友達に、あんなのと比べられるんじゃ大変だな、と言われたものだが、相手があまりにもできすぎていて、実際に比べられたことは一度もなかった。
 完璧すぎるし、年齢のわりにしっかりしすぎているので、もしかしたら千年ぐらい生きてるんじゃないの、と言ったら、よくわかったね、と笑っていた。
 どんな大学のどんな学部にだって楽に入れる成績だったのに、おもしろそうだからと進学しないで親父の仕事を手伝って、実際、かなり楽しそうに働いていた。
 なんの匂いかはわからないけど、いつも不思議ないい香りがした。
 なにかにつけては花を買ってきて、母さんにプレゼントしていた。
「母さん」
「なに?」
「秀兄ぃが死んだ時のこと憶えてる?」
 なんとなく、ずっと聞きたくて、けれど聞けなかった質問を口にしてみる。
 なあに突然、と言いながら、母さんは微苦笑を浮かべた。
「それがね………ぼんやりとしか憶えていないの。あんまり悲しすぎて忘れちゃうなんてこと、あるのかしらね」
 なんとなく、そうなんじゃないかと思っていた。
 おれも、母さんと同じだ。
 秀兄ぃが死んだ前後の記憶があやふやなのだ。なぜか。
 葬式をしたことは確かに覚えているのに、細かいことがどうしても思いだせない。
 その記憶のあやふやさが、なんだか今の気分と似ている。
 何かが抜け落ちているような……。
「それとも、悲しすぎる記憶を残したくなくって、秀一がそうしてくれたのかもしれないわね。……やさしい子だったから」
「うん。そうかもしれない」
「だから、今はあの子との幸せな時間しか想い出せないの」
 母さんは笑うけれど、その顔が少しだけさびしい。
「母さん」
「なあに?」
「心配かけてごめん」
「いいのよ。無事で元気なら」
 母さんは穏やかに微笑む。
 兄さんと母さんはあまり似たところのない親子だったけれど、笑い方はよく似ている。
「安心してよ。おれは母さんより先に死んだりしないから」
 おれの言葉に、母さんはちょっと涙目になった。
 兄さんほどには愛せないけれど、おれはおれなりにこの人を守っていきたいと思っている。
 そして、この人を誰よりも大事にしていた人を、忘れたくないと思っている。

おわり

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