魔界心中


哀しいだけの運命でもいい
眠るだけの魂でもいい
冷たいだけの骸でもいい

おまえが与える何かが欲しい


Chapter1 BLACK and WHITE

どれほどの命を奪っても 彼はその屍を喰わない
屍の山の上で みずからの血肉を喰らう彼は
原罪を犯さずに生きていることになるのたろうか

「ここがおれの寝ぐらだ」
 ついさっき、樹を殺しかけた人間の少年は、そう言って自分の部屋に彼を招き入れた。
 おそろしく殺風景なワンルームマンションの一室……人が暮している部屋とは思えないほど、生活臭がない。
 家具も必要最低限といった程度のものしか置かれておらず、それもごくごくシンプルなデザインのものばかりだ。
「本当にただの寝ぐらなんだな」
 感心したような樹のつぶやきに、仙水が顔をほころばせる。
「そうだな。この部屋ですることといえば、寝ることとテレビを見ることぐらいなもんだ」
「それ以外の時間は何をしている?」
「学校に行ってるか、妖怪を殺してるかだな」
 あっさりと答えた仙水の顔を、樹は凝視した。
「おまえの仲間を殺しているおれが憎いか?」
 樹の視線を平然と受け止めながら、仙水は探るような視線をはしらせた。
 怖れを知らぬ子供の瞳と、狙った獲物に容赦なく襲いかかるハンターの瞳。その二つを何の疑問ももたずに同居させているこの少年は、ずいぶんと長いこと眠り続けていた、樹の中の何かをざわつかせる。
「他のやつらがどうなろうと、おれの知ったことじゃない」
「そうだな。妖怪どもときたら、醜くて、馬鹿で、人間に害をなすだけのろくでなしだ」
 仙水のあからさまな嫌悪の表情に、今度は樹が顔をほころばせた。
「なにがおかしい」
 むっとして問いかけるその表情がやけに幼くて、樹はなかなか笑いをおさめることができない。
「おまえはまだ子供なのだな」
「どこがだ」
「美しい妖怪もいれば、醜い人間もいる。それくらいのことがわからないのなら、おまえは子供だ」
「……勝手に言ってろ!」
 仙水は気分を害したようたったが、それ以上の反論をすることなく、さっさとパジャマに着替えると、ベッドにもぐり込んでしまった。
「おれはもう寝るからな。おまえは好きなところで寝ろ」
「人間に害をなすだけのろくでなしに、寝首をかかれるとは思わないのか? おまえは」
「思わないな」
「そ……れはまた……」
 あまりにもきっぱりとした仙水の返答に、樹はおもわず絶句してしまった。
 妖怪に対する容赦のなさで知られる仙水が、妖怪である自分を部屋に招き入れ、その身を束縛することもないままに無防備な姿をさらけだしてみせる。この事態をどう解釈すべきたろうか……。
 樹はベッドサイドに立ち尽くし、はやくも軽い寝息をたてている仙水をみつめた。
「それはまた……みくびられたというか、見込まれたというか……」
 樹はそうつぶやくと、苦笑を浮かべた。
 罪という言葉すら知らぬ純白の素顔と、妖怪たちの命を喰らう暗黒の素顔。人間も妖怪も、濃淡の差はあるにせよ、皆、それぞれに白と黒の自分を混ぜ合い、灰色の存在として生きているのに、この人間の少年はどうやって、互いを混ぜあわせずに今まで生きてきたのだろう。
 妖怪という存在そのものが『悪』と信じ込み、妖怪のすべてを殺そうとする仙水。
 この少年はおそらく、みずからを変えようとするすべてのものを拒否するという手段で、この純粋さを保ってきたのだ。
 黒いものは黒い部分へ。白いものは白い部分へ。そして……灰色のものはすべて目の前から消し去って……。
 だが、きっとこのままではいられない。
 いつか必ず何かを受け入れ、その分だけ何かを失うことになる。
 その時、おまえがどうするのかを知りたい。どうなるのかを見届けたい。
 おまえは灰色になるのか? それとも、そうなる前に自身の存在そのものを消し去ってしまうのか?
「おまえが死ぬまで生きてみようか」
 何気なく口にしたその考えを樹はいたく気に入り、その次の瞬間に、仙水に一生、取り憑いてやる、と心に決めた。
 これは最高に楽しいゲームになるだろう、と。


 テレビ画面に番組の最後のテロップが流れ、コマーシャルが始まった。
「終わったな」
「ああ」
 肩をならべ、短い言葉を交わしながらも、仙水は画面から目を離さない。樹はそんな仙水から目を離さない。
 そうやって、五分程の時間が過ぎた後、仙水はゆっくりと頭をめぐらせ、昨日、殺すはずだった妖怪と視線をあわせた。
「最後に言いたいことはあるか?」
 仙水は穏やかなまなざしでそう問いかける。
 それは昨日の質問と同じもの。そうしてその時、樹は、『明日まで生きたい』と答えたのだ。
「おまえの……望みを知りたい」
「おれの望み? なせ、そんなことを知りたがる」
「深い意味はない。なんとなく知りたくなった」
「おれの望みは、妖怪どもを皆殺しにすることだ」
 仙水はきっぱりと言い放った。
 迷いのない瞳だ。過ちを知らない瞳だ。過ちばかり犯しているくせに。
「では、おれはおまえの手伝いをしよう」
「何?」
「おまえの妖怪退治の手伝いがしたい。おれはおまえの役にたてるはずだ。……そうだろう?」
 樹の提案に、さすがの仙水も面食らったようで、おし黙ったまま、探るような視線を樹に向けている。
「本気か?」
「もちろん」
「なぜ?」
「ずっと、おまえのそばにいたいからだ」
「…………」
仙水は困惑しきった表情で、樹をじぃっとみつめているが、その視界の中に樹が入っていないのは確かだった。
「趣味の……悪いやつだなあ」
 仙水はポソリとつぶやくと、すっくと立ち上がった。
「そうか? ずいぶんと趣味がいいと、自分では思っているんたが」
 樹は涼しげな表情で、仙水を見上げる。
 仙水は黙ったままきびすを返すと、机の横に置かれていたアタッシェケースを取り上げ、机の上に広げると、何ごとかをごそごそとやりはじめた。
「ちょっと話したいことがあるんです。来てくれませんか? …………はい。待ってます」
 アタッシェケースの中身に向って小さく会釈した後、仙水はパタンとそれを閉じると、樹に顔を向けた。
「コエンマがすぐにここに来る。おまえがやつを納得させることができたら、おまえを生かしておいてやろう」
「コエンマ? 霊界の閻魔大王の息子か」
「そう。そいつがおれの上司だ」
「なるほど。……では、そいつのためにコーヒーでもいれてやろう」
 樹は優雅なしぐさで立ち上がると、台所に向かっていった。
「妖怪がコーヒーをいれるのか?」
 仙水のからかうような声が、背中ごしに聞こえてくる。
「人間界での生活が長いからな。人間にできることなら、なんでもできるさ」
「そりゃ、便利だな」
「ああ、おれは便利な男だぞ。気はきくし、料理もつくれる。そばに置いといて損はない」
「それがおまえのウリか? 女みたいだな」
 仙水のなにげない言葉に、コーヒーメーカーのスイッチをオンした樹が振り向く。
「おれが女だったら、こんな売り込み方はしていない。もっと手っ取り早い方法があるからな」
「???」
 不要領な顔をしている仙水を見て、樹は意味深な笑みを浮かべた。
「やはり、おまえは子供だ」
「なにが言いたい!」
 仙水が憤慨して、樹をにらみつける。
 樹はにやりと笑うと、大きなクッションにもたれかかっている仙水の元までやってきて、その子供っぽいまるみを残したあごに手をあてた。
「おれが女だったら、こうやって顔を近づけて……みつめて……くちづける……」
 樹は仙水を熱のこもった瞳でみつめた。
 そのつくりものめいた美しい顔に映る妖しげな表情にとらえられ、仙水は身動きがとれない。
「すがりついて……襟元から手をすべりこませて……誘惑する……」
 樹の右手は仙水のあごから離れない。左手も床につけられたままだ。
 それなのに全身をなでまわされているような感触がする。
「い……つき……」
 仙水があえぐような声をしぼりだした。
 それが合図であったかのように、樹はすっと身をひいた。
 その表情は穏やかで、さきほどまでの妖艶さなどみじんも感じさせない。
「ここまで説明すれば、おまえみたいなお子様でもわかるだろう?」
 樹の言葉に、またたくまに耳たぶまで赤く染めた仙水が、床にどんと両手をついた。
「おまえっ……おれを馬鹿にしてるだろ!」
「教えてやると怒る。やらないでも怒る。これだから子供は扱いづらい」
 樹はすました表情で答え、それがまた仙水の気にさわる。
「その子供のそばにいたいと言い出したのはおまえだろ!」
「そうだよ。おれはおまえがどんな大人になるのか……とても興味があるんだ」
「ふん」
 仙水はぷいと横をむいた。
「とにかく! おまえは男なんだからな! おれのそばにいたければ、二度と今みたいなことはするなよ」
「今みたいなって……どれのことだ?」
「樹!」
「おれはおまえのあごにさわってたたけだぞ。それがどうかしたのか?」
「…………お……まえ~」
「それとも、さっきのたとえを実行して欲しかったのか? おまえがそうして欲しいのなら、そうしてやるぞ」
 しれっとして答える樹の胸倉を、仙水がつかんだ。
 それでも樹は、すました表情を崩さない。
「おまえっ! 性格、悪いぞ!」
「趣味が悪い、性格が悪いと、さんざんだな」
「実際そうだろ!」
 叫ぶ仙水、笑う樹。そんな二人のじゃれあいは、だが唐突に打ち切られてしまった。
「忍!」
 突然、割って入った声に、おもわず仙水と樹が同時に振り向くと、扉口に顔をひきつらせたコエンマが立っていた。
「そこにいるのは、樹だろう? なぜ、そいつがここにいる。ワシにわかるように説明しろ!」
 コエンマの驚愕は、実にもっともだった。
 霊界探偵である仙水に、樹の抹殺を指示したのはコエンマだ。
 コエンマの下した指令に、仙水が逆らった例も、失敗した例もひとつもなく、おまけに仙水は、妖怪たちに対して、容赦することを知らなかった。
 その仙水が殺すはずだった妖怪相手に、仲のよい友達さながらにじゃれあっているなど……自分の目が変になったのだと信じる方が、まだ楽なほどである。
「客が来たな。コーヒーを持ってくる」
 樹はすっと立ち上がると、台所に行ってしまった。
 仙水は黙ったままコエンマに向けてクッションを投げると、ガラステーブルの横に移動し、そこに右ひじをつく。
 コエンマは困惑しきった表情で、視線をそらす仙水の横顔と、台所に立つ樹の後姿に交互に視線をはしらせたが、どんなに考えても無駄だと悟り、はあっと深いため息をつくと、クッションの上に座り込んだ。
 しばらくして、コーヒーカップを二つ持った樹が、部屋に戻ってくる。
「カップが二つしかみつからないぞ」
 樹がガラステーブルにカップを置きながら苦情をもらした。
「おれは一人暮らしだし、来る客といえばコエンマぐらいなもんだからな。二つで十分だったんだ」
「明日、おれのを買ってきてくれ」
「なんで、おれが買わなきゃならないんだ」
「盗んできてもいいのなら、買ってくれなくてもいいぞ」
「それはまずいな……わかった。必要なものは明日、買い揃えよう」
「すまないな」
 淡々と会話を交わす仙水と樹の間で、コエンマが目を白黒させている。
 話を聞いていると……仙水と樹が同居をはじめるように解釈できるんたが……やはり、気のせいというものだろうか。
 動揺の色を隠せないコエンマに気を配る様子もみせず、仙水はコーヒーカップに口をつけた。
「うまい!」
 仙水が一口、飲んだ途端に感嘆の声をあげた。樹はその横で満足そうな笑みを浮かべている。
「なんで同じ豆を使ってるのに、こんな味が違うんだ?」
「それはきっと、おまえのいれかたがおかしいんだろう」
「えぇっ、そうかなあ」
 何の不自然もなく、気軽に会話を交わすその二人の表情があまりにも楽しそうで……コエンマの困惑はさらに深まってしまった。
 そこへ駄目おしのように、コエンマに向かって樹がきまじめな顔で挨拶をする。
「はじめましてですね、コエンマさま」
 樹の馬鹿にしているとしか思えない言葉に、コエンマが眉根を寄せる。
「ああ、ワシはおまえの顔と名前と罪状しか知らなかったからな」
 コエンマは警戒心を隠そうともせず、あからさまな嫌味をぶつけてくるが、樹は臆する気配も見せなかった。
「樹です。これからお世話になります。よろしくお願いします。……これでいいのか? 仙水」
 樹は床に手をつき深々と頭を下げると、仙水に向かってケロリとした表情で尋ねた。
「お……世話あ?」
 コエンマがおもわずすっとんきような声をあげる。
 先程から懸命に笑いをこらえていた仙水が、こらえきれずに声を出して笑い始めた。
「忍! 笑っていないで、さっさと事情を説明せんか!」
 コエンマが怒って、仙水の頭を小突く。
 仙水はどうにか笑みをひっこめると、コエンマをじっとみつめた。
「樹が気に入りました。殺すぐらいなら、おれにください。霊界探偵の助手をさせます」
「気に入った? おまえが? 妖怪を?」
 コエンマの疑問はもっともだった。
 誰よりも妖怪を憎んでいたはずの仙水が、その妖怪である樹を殺そうとしないばかりか、手元に置いておきたいと考えるなど……。
「そうです。この妖怪が気に入りました」
「…………」
「頼みます」
 コエンマは困惑しきった表情で、腕組みをしたまま、じっと考えこんでいたが、ふいに大きなため息をつくと樹に視線を向けた。
「樹……どうやって、この妖怪嫌いの忍を口説いた」
「別に」
 樹がそっけない口調で答える。
 礼儀上の挨拶はすませたのだから、これ以上は何も話したくない。そんな樹の態度に、コエンマがむっとして仙水に視線を転じる。
「忍。樹は危険だ。それはわかっているのか?」
「大丈夫です。樹は絶対におれを裏切らない。……そうだろう? 樹」
「もちろんだ」
 二人の間に流れる、この妙に親密な空気は何なのだろう。
 コエンマは二人を見比べながら、真剣に考えこんでしまった。
 けれど、さっきの仙水の、年相応の子供のようなあの笑顔。あれはコエンマが目にしなくなって久しいものだった。
 仙水は明らかに疲れている。
 その疲れを少しでもやわらげることができるのなら……たとえ、それが危険な賭けであろうとも……。
 コエンマは仙水をみつめた。
 仙水は神妙な表情でコエンマの答えを待っている。
「おまえが、ワシに頼みごとをしたのはこれが初めてだな」
「じゃあ」
 仙水がぱっと顔を輝かせる。
 だが、コエンマの気持ちは複雑だった。
 こんなにうれしそうな表情を浮かべる仙水を見るのはうれしかったが、何か重大な過ちをおかしたような気がしてならなかったのだ。
「樹を信用するわけじゃない。ワシはおまえを信用するのだからな。覚えておけよ」
「ありがとうございます」
 仙水はペコリと頭を下げた。
 コエンマは立ち上がると、樹にきついまなざしを向けた。
「樹、忍を裏切るなよ」
「裏切りませんよ。決して」
「……おまえへの処罰は、忍の助手を勤めている間、保留にしておく」
 コエンマはそう言い捨てると、仙水の部屋を去っていった。
 再び二人っきりになった部屋で、樹はカップを片づけながら仙水に尋ねる。
「忍というのだな」
「ん?」
「さっき、コエンマがおまえをそう呼んでいた」
「ああ、おれは仙水忍というんだ」
「いい名前だ」
「そうか?」
「今度からは忍と呼ぼう」
「好きにしろ」
 二人はそうやって、霊界探偵とその助手、という間係におさまった。
 樹は彼自身が最初にそう言ったように、決して仙水の邪魔にはならなかったし、熱心にみずからの役割をこなしていた。
 それはそれなりに……幸福な時間であったのかもしれない。

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