名を呼ぶ声


「飛影!」
 誰かがおれの名を呼んでいる。
 そう感じた瞬間に、小さな疑問が脳裏をよぎった。
 いつから、それがおれの名になった?
 親がつけたわけでも、ましてやあのいまいましい氷女がつけたわけでもない。ただの通りすがりの盗賊がたわむれにつけた名を、なぜ、おれは自分の名として使い続けているのだろう。
 おれに名などない。
 あんなクズどもにつけられた名など、なんの価値ももたない。
 それなのに、その名を呼ばれれば反応するし、名を問われればその名を答える。
 おれに名などなかった。
 もしかしたら、『忌み子』というのがおれの名だったのかもしれない。なにせ、おれが生まれた時、皆がその名でおれを呼んでいたのだから。
 それが気がつけば、おれは『飛影』という名を持つ存在になっていた。
 多くの者がその名を知っている。
 氷河の国の忌み子として、魔界の盗賊として、あるいは暗黒武術会の優勝者として、その名を知っている。
 多くの者がその名を呼んだ。
 憎しみをこめて、嘲りをこめて、あるいは親しみをこめて、その名を呼んだ。
「飛影!」
 また、あの声だと思う。
 この名をあんなふうに呼ぶやつは、きっと一人しかいない。
 少なくとも、おれは一人しか知らない。
「飛影!」
 いいかげんにその名を呼ぶのをやめろ。
 それはおれの名じゃない。
 名がなければ不便なので、便宜上それを使っているだけだ。
 それは、ただの記号にすぎない。
 それなのに――それがおれの存在そのものであるかのように、その名を呼ぶな。
 おれは応えてしまいたくなる。
 おれの名ではなく、おれという存在を呼ぶ、その声に……。
「飛影!」
 もう、終わりにしたいんだ。
 この名で呼ばれるようになってから、失ったすべてのものを、おれは取り戻したから……おれはもう、『飛影』であることを終わりにしたいんだ。
 おれはただの『忌み子』だ。
 氷河の国に捨てられた、災いをふりまく『忌み子』だ。
 血にそまって生まれ、血にまみれて生きてきた者が、血を流して死んでいくだけだ。多くの命を奪ってきて、ようやくおれの番が来ただけだ。
 このような場所で死ぬ運命に、なんの不満も感じない。
 失いたくない何かを失わないうちに、すべてを終わらせてくれるのなら、運命とやらに感謝してやってもいい。
「飛影!」
 おれを引き止めるな。
 おれの心をかき乱すな。
 おれはおまえのために怒ってやった。おれはおまえのために闘ってやった。おれはおまえのために笑ってやった。
 これ以上、おれになにをやらせたいんだ。
 おれに……おまえのために泣けとでも?
「飛影!」
 おれはもう、おまえの名など呼んでやらないから――おまえもその名を呼ぶな。
 文句があるのなら、今すぐにおれの目の前に現れてみせろ。
 負けっぱなしで死ぬのかと、こんなくだらないことでくたばるんじゃないと、耳元でわめいてみせろ。
 それができないのなら、そんな自信に満ちた声でその名を呼ぶな。
 うっかりその声に応えてしまいたくなるじゃないか。
 救いを求めるように、その名を呼んでみたくなるじゃないか。
「ゆう……す…………け……」
 おまえが……おれの名を呼んでいる。

おわり

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