今日で春休みも終わり。
明日からはついに中学三年生。いわゆる受験生というやつになってしまう。
一年後の春休みに自分は何をしているだろう。高校ぐらいは行っとかないと、親がうるさいだろうなあ。
そんなことを考えていたら、なんだかとっても憂鬱な気分になってきて、おれはベッドに寝っころがって、天井をぼーっとみつめた。
ニャアオ。
鳴き声のする方にふと目を向けると、いつのまにかベッドに飛び乗っていた永吉が、おれの右の手の甲をペロリとなめた。
「おっ、永吉。おれの気持ち、わかってくれるか?」
からだを起こして、永吉を抱きあげ頬ずりをする。
「おまえ、本当にいいやつだよな。桑原さんに可愛がられるわけだ」
そんなことをなにげなく口にしたら、考え出したら落ち込む一方なので、できるだけ考えないようにしようと心にきめていたことを思い出してしまった。
永吉の本当の飼い主である桑原さんのことだ。
ある日、突然、桑原さんは何かに思い悩むような表情を見せるようになった。
失恋したのだと、浦飯は言っていたけれど、桑原さんをふるなんて、救いようもなく男を見る目のない女だと思う。
自分が女だったら、絶対に桑原さんに惚れていた。
これは断言したっていい。
そりゃあ、浦飯には連敗中だし、顔もからだつきもちょっとごっついし、女の子に向かって気の利いた台詞の一つもかけられるような人じゃないけれど、桑原さんは絶対に好きになった女は命懸けで守る。
女の子たちは、それ以上の何を望むというのだろうか。
まあ、そんなおれの考えは横においとくとして……とにかく桑原さんは元気がなかったが、それからしばらくすると、さらに不審な行動をとるようになった。
毎日のように新しい傷をこしらえて学校にやってくるし、いつもくたびれきったような表情をしていて、授業中も休み時間もひたすら眠り続け、おれたちが耳元で怒鳴っても、先公がげんこつをくらわせても、絶対に起きようとはしなかった。そのくせ、下校時刻になった途端に、目をばっちりと開けると、ものすごい勢いで姿をくらましてしまうのだ。
そして、そんな桑原さんの異変と時を同じくして、浦飯はまったく学校に来なくなってしまった。
一体、何事があったのかと尋ねてみても、桑原さんは「心配するな」の一点ばりで、本当におれたちが知りたいことはまったく教えてくれない。けれど、その真剣な表情は、おれたちにそれ以上の追及を断念させるに十分だった。
なんだか、知らないうちに桑原さんがおれたちの手の届かないところへ行ってしまいそうで、おれたちは怖かった。
けれど、おれたちは桑原さんの進む道を邪魔してはいけないのだ。桑原さんの後を追いかけるばかりのおれたちは、桑原さんの行き先にあれこれとケチをつける権利なんか持っていないし、たとえ、それを持っていたとしても、使おうとはしなかったたろう。
おれたちにできることといえば、うっとうしげに顔をつきあわせ、あれこれとやくたいもない憶測を並べ立てることぐらいだ。
そんな不安な気持ちのまま迎えた終業式の日。桑原さんはおれの家にひょっこりと現れた。
「悪いが、ちょっとの間、永吉をあずかってくれねえか?」
桑原さんはすまなそうに言うと、胸元の永吉をみやった。
無類の猫好きの桑原さんが特に大事にしている永吉をおれにあずけてくれる。
そんなうれしいこと、おれが断るわけないじゃないか!
「そんな。悪いだなんて」
「どうも、家族にあずけるのは心配でよ。その点、桐島なら永吉もなついてるからな。安心できる」
「まかせといてください」
おれはトンと胸をたたいた。
桑原さんはうれしそうに笑って、おれに永吉を渡したが、それでも名残惜しそうに、おれの腕の中でニャアと鳴いている永吉をみつめると、やさしくその頭をなでた。
「じゃあ、頼んだぜ」
桑原さんがドアの向こうに消えていく。
おれはその背中に得体のしれない不安を感じて、おもわず叫んでしまった。
「桑原さん」
「ん?」
「その……」
振り返った桑原さんを見て、おれは口ごもってしまった。もとより、何か言いたいことがあって呼び止めたわけではないのだ。
「どこへ……行くんですか?」
「……」
おれのその場しのぎの質問に、桑原さんは困ったように頬をポリポリと掻いた。
「ん……すまねえ。話せないんだ」
「なぜですか?」
「本当のことは言えないけど、おまえらに嘘はつけねえ。だから……話せない」
桑原さんらしい、いかにも不器用な説明に、おれはおもわず笑ってしまった。桑原さんは本気ですまながっている。これ以上、困らせるわけにはいかない。
「じゃあ、教えてくれなくてもいいです」
「本当にすまねえ」
「永吉のことは心配しないでいいですから、気をつけていってきてくださいね」
「ああ、よろしく頼むぜ」
桑原さんはそう言うと、いつもの頼もしい笑みを浮かべ、扉の向こうに消えていった。
そんな桑原さんを見送るおれの心の中に、不安な気持ちがなかったといえば嘘になる。
けれど、おれたちにはおれたちの知らない何かを追いかけ始めた桑原さんを、止める権利もなければ力もない。
おれたちに出来るのは、桑原さんを信じて待つことだけなのだから。
だけど、本当に桑原さんはどこに行ったのだろう。おそらくは浦飯と行動を共にしているのだろうけれど。
「なあ、永吉。おまえ、知らないか?」
つぶやきながら背をなでていると、永吉はふいにしっぽをピンと立て、そのまま硬直したように動かなくなってしまった。
「おい、どうしたんだ? 永吉」
おれがギョッとして手を離した途端、永吉はものすごいスピードで部屋を出ていった。
あわてて追いかけると、永吉はあろうことか玄関のドアをガリガリと引っ描いている。
「やめろ、永吉。傷なんかつけたらおふくろに怒られるだろ」
おれはあわてて永吉を抱き上げたが、永吉はなおもドアに向かって手を伸ばし、バタバタと腕の中で暴れている。
「永吉。どうしたんだよ」
桑原さんからあずかって以来、永吉は終始、おとなしかった。なのに、突然、こんなことをするなんて。
「永吉、やめろってば!」
おもわず怒鳴ったおれの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
「桐島?」
その声に驚いたおれが反射的にドアを開くと、腕からすりぬけた永吉が、一目散に外に飛び出していった。
「おう、永吉。元気そうだなあ」
しゃがみこみ、永吉を抱き上げた桑原さんは、おれを見るといつもの頼もしい笑顔を浮かべた。
「悪かったな、桐島。永吉、おとなしくしてたか?」
「もちろん」
おれの声はうわずっていたかもしれない。
桑原さんだ。本物の桑原さんだ。
「そりゃ、よかった」
桑原さんはうれしそうに笑った。
おれも、桑原さんの笑顔がうれしくて笑った。
短い会話を交わした後、桑原さんはもう一度、礼を言うと永吉を抱いたままくるりと背を向けた。
なぜか、そのまま別れてしまうことに焦りを感じたおれは、おもわず声をかけてしまった。
「桑原さん!」
「ん?」
「その……」
おれはうつむきながら、懸命に言葉を探したが、口をついて出たのは、なんの変てつもない言葉だった。
「おかえりなさい!」
なんだか、すごくまぬけなことを言ってしまったような気がする。
桑原さんは一瞬、きょとんとした表情を見せたが、ふいにニヤリと笑うと、おれの頭をポンポンと叩いた。
そのてのひらの暖かさに、涙が出そうになった。
「だたいま」
桑原さんの言葉は、そのてのひらに負けないくらい暖かかった。
「じゃあ、明日な」
「はい」
久しぶりにおれは、ちゃんと桑原さんの背中をみつめることができた。
久々に見た桑原さんの背中は、とても大きかった。
桑原さんはこの春休みをどこでどう過ごしたのだろうか。そしていつか、おれたちにも本当のことを教えてくれるのだろうか。
おれは何も知らないけれど、これだけは断言できる。
桑原さんはたった十日で、さらにいい男になった。
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