逢魔ヶ時


「この村にいた食脱医師さまなら、先月、お亡くなりになられましたよ。
 父親の知れない赤子を身ごもりましてな……そのためおからだが弱り、床にふせったきりになり、ついに赤子を産むと同時にお亡くなりになってしまいました。
 赤子は、死を覚悟なさっていた食脱医師さまが、生前に手筈を整えておりましてなぁ……お知り合いの、子宝に恵まれない夫婦に引き取られていったそうです。
 お墓ですか?
 この寺の裏山にある墓地の一番奥にありますが、ご遺体は埋められておりませんよ。
 聞いたところによると、食脱医師さまのご遺体からは、大層、貴重なお薬がつくれるそうでしてな……食脱医師さまが生前にお呼び寄せになられていたお仲間の方々が引き取っていかれました。
 死んでもなお、病に苦しむ者のためにその身を尽くされるとは、まこと尊い方々でございますな。
 それでも、食脱医師さまの御霊を、私どもにも弔わせて欲しいと申し出ましたところ、ご遺髪をわけてくださいましたので、お墓にそれを埋め、供養させていただいております。
 ……ところで、お客人は食脱医師さまとはどのようなお知り合いで?
 お客人? お客人?
 ……はて、いかがなされたかな?」
 盲いた老僧は、仏堂で首をかしげる。
 声の感じからして、おそらくは若い男であろうが……漂う気配がどことなく風変わりだった。
 食脱医師の行方を問うた声が、わずかにふるえていたような気もする。
「もしや……」
 ある思いつきに、老僧はおもわず立ち上がった。
 誰がどんなに尋ねても、決して腹の中の赤子の父親の名を口にしようとしなかった食脱医師……彼女が隠し通した相手こそが、突然、現れて、食脱医師の行方を尋ねてきた、さきほどの男だと、なぜだか確信できる。
「ご事情は存じ上げぬが、まことにお気の毒な……」
 老僧はつぶやくと、仏像に向かって手をあわせ、経を唱えたのだった。


 黄昏時は逢魔ヶ時とも言う。
 その逢魔ヶ時に、女の墓の前にうずくまる魔物がいた。
 魔物は墓石を押し倒し、素手で土を掘り返し、そこから、黒髪の束を取り出した。
 魔物は黒髪の束を強く強く握りしめた。鋭い爪がおのれの掌にくいこみ、そこから鮮血が吹き出しても、かまわず握りしめ続けた。
 束ねていたこよりがちぎれ、髪が散らばり、魔物は地にはいつくばり、それをかき集めた。
 土と血にまみれても、黒髪は美しく、それに指を通し、口づけた時を……その黒髪の海に青白く浮かんでいた肌の色を思い返して、魔物は号泣した。
「人間に……他のヤツに喰われるぐらいなら、おれが喰ったのに……」
 魔物はうめき、黒髪を抱きしめ、墓の前でいつまでも号泣し続けたのだった。


 逢魔ヶ時……魔物の慟哭は、大気をふるわせ、地鳴りを起こし、周囲の山々からいっさいの鳥獣を追い払い、遠く山を越えた村の住人をもふるえあがらせたという。  

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