さよならのひとつまえ


「今……なんと言った?」
「やあね。いきなり耳が遠くなったの? 霊界人でもやっぱり老化はするのね。結婚するから、霊界探偵、引退するって言ったのよ」
 黒呼のあっけらかんとした態度に、やはり聞き違いではなかったのかと、コエンマはがっくり肩を落とす。
「そんな話、聞いておらん」
「あたりまえじゃない。私も初めて話したもん」
「つきあっている男がいるという話も聞いたことがない」
「あら、それもしてなかった?」
「……黒呼……」
 しれっとしている黒呼を、コエンマはうらみがましくみつめる。
「この仕事がつまっとる時期に……後任も探さなきゃならんし……とりあえず、早急に片づけ痛っ」
 ほっとけばいつまでも続きそうな、独り言なのかイヤミなのか判別がつかない台詞は、黒呼のゲンコツで強引に打ち切られた。
「なんじゃ」
「その前に、言うことがあるでしょっ!」
「?」
「かわいい部下が結婚引退するって言ってんのよ!」
 コエンマは黒呼が何を言っているかわからず立ち尽くす。
「……じゃあね、もう二度と会わないと思うわ。さよなら」
 コエンマが本気で悩んでいるようなので、黒呼は怒って歩き去ろうとする。
「待てっ。黒呼っ。まだ話がっ」
 コエンマはあわてて後を追うが、どうすれば黒呼のごきげんが直るか、いまだに気づけないでいる。
「何を怒ってるんだ」
 やはりどうしてもわからないらしいコエンマに、黒呼が足を止め、ため息をつく。
 気がきくようで、実はものすごくにぶいところがあると気づいてはいたが、どうしてここまで言ってもわからないのだろうか。
「結婚する人に向かって、最初にかけなくっちゃいけない言葉って知ってる?」
 右の人差し指を額の文字にビシッとつきつけられ、コエンマはきょとんとし……黒呼の言わんとするところをようやく理解した。
「……おめでとう。お幸せに」
 おずおずと言うコエンマに、黒呼ば満足気にうなずいた。
「そうそう。それでいいのよ」
「すまなかった」
「まったくよ」
 黒呼が怒るのも当然である。やはり上司としては、まず最初に祝いの言葉をかけてやらなければならなかったのだと、コエンマは深く反省した。
「おまえには本当に世話になった。その力を失うのは惜しいが、幸せになって欲しい。まあ、おまえのことだから心配はないだろうが」
「あたりまえよ。私が選んだ男よ」
 黒呼は自信満々の顔で笑う。
 コエンマは複雑な気分で笑いかえした。
 何か、からだのどこかに大きな穴があいてしまったような気分だ。
 仕事とは関係のないところで、黒呼に何かを頼っていた自分にようやく気づいた。
 それでも、彼女は幸せになるための一歩を踏み出すと言うのだから……笑って送り出してやらなければならないだろう。
「結婚式には出席できんが……」
 コエンマの言葉に、黒呼は手をさしだした。
「出席しなくていいから、お祝いをちょうだい」
 結婚に対する男のセンチメンタルと、結婚直前の女のリアルの間には、深くて暗い河がある……という現実に直面したコエンマは、深いため息をついたのだった。

おわり

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