ただいま


遠い遠い島で いろんなことを知った

闘い続ける少年がいること
人間と共存することのできる妖怪がいること
そして……自分は幸福なのだということ


「ただいま!」
 梁の大きな声が、懐かしい我が家にこだまする。
 その声に驚いて玄関先に転がり出てきた三田村の弟子たちは、信じられないとでもいうように目をぱちくりさせると、その場にたちすくんでしまった。
「どうした? おまえたち」
 三田村の穏やかな問い掛けは、小一時間ほどそこらを散歩してきただけだよ、とでもいうような響きを持っていた。
 ようやく現実を受け入れることに成功した弟子の一人が師匠に飛びついた。それに続いて我も我もと皆が師匠と円、梁、魁に飛びつく。中には廊下にへたりこんで涙を流している者もいる。
 よく見ると、皆それぞれに目の下にくまができていたり、頬の肉がそげ落ちていたりで、どれほど心配してくれていたのかが痛いほどわかる。
「すまなかった」
 三田村は弟子たちの前で頭を下げた。
 弟子たちがあわてて三田村の顔を上げさせる。
「いいんです、師匠。元気で帰ってきてくださった。それだけで十分です」
「そうですよ。十分にからだを休めて、もう一度、おれたちを鍛え直してくださいね」
「三田村先生がいらっしゃらなかったものだから、皆、からだがなまってしまって」
「おいおい、それじゃあ私はおまえたちを基礎から鍛え直さなけりゃならないのか?」
 弟子たちの愛情のこもった言葉に、三田村が微笑む。そして……その瞳には涙がたまっていた。
「やっぱり年だな……涙もろくなっている」
 三田村が目頭をおさえながらつぶやいた。
「師匠」
「三田村先生」
 三田村の涙につられるようにして、皆がおいおいと泣きだした。
 いなくなった師と仲間を想って、いくつの不安な夜を過ごしたか。
 一人だったら耐えられなかった。皆で励ましあい、慰めあいながら、きっと帰ってくる、きっと連れ帰ってくれると自分に思い込ませるのに必死だった。
 だけどもう、そんなことをする必要はないのだ。
 師の声は暖かく、以前と変わらず元気だ。
 大丈夫。明日からはすっかり元通り。そうして、また修業の日々が、楽しい日々が始まるのだ。
 仲間の一人が師匠を連れ帰ってきてくれた三人に笑いかける。
「よくやってくれたな」
「いや、心配をかけてしまって」
「からだの方はなんともないのか?」
「ああ、この通りピンピンしてるよ」
 仲間の心配そうな声に、梁は笑いながら力こぶをつくってみせた。
 三田村の病気の治療を無料でしてもらうために、三人はイチガキの人体実験につきあったということになっている。
 そして、その実験が極秘のものだったので、今まで連絡を取ることを許されなかったのだと。
 首縊島の出来事を知るのは三田村と円、梁、魁の四人だけ。
 特に真実を知らせることを望んだ者は一人もなく、彼らはイチガキの嘘を真実にしてしまったのだ。
「おれたちは何もしなかったよ」
 口々に礼を言う仲間たちの耳に、小さな声が届く。
「円?」
 梁はけげんそうに円をみつめた。
「何も……できなかったんだ」
 目を伏せ、唇をかみしめながら円がつぶやく。
 仲間たちの不思議そうな視線と、梁と魁の心配そうなそれが円の頭上で交錯する。
 けれど、そんな皆の戸惑いが、沈み込む円の心に届くことはなかった。


 以前とまったく変わらぬ修業の日々が始まった。
 三田村の怒声も、弟子たちの悲鳴も、彼らが馴れ親しんだ日常そのものだった。
 変わったものがあるとすれば、円のとりつかれたような練習ぶりだった。
 円はもともと、黙々と地道に修業を重ねるタイプだったが、首縊島から帰って以来、周囲の者たちをハラハラさせるほどの苛酷な修業を自分に課している。
 その様子は……まるで、自分自身を痛めつけているようで、そんな円の姿は仲間たちの目に痛々しく映った。
 口数が少なくて内気だけれど、話しかけるとはにかんだような笑みを見せてくれる円は、皆に可愛がられる存在だった。
 けれど、今の円は違う。何かが違う。
 今の円は……そう、なにかに追い詰められ、必死に逃げ場を探している子供のような目をしている。
 皆は不安をおぼえながらも、その理由を問い掛けようとはしなかった。怖かったのだ、わけもなく。
 そして、問い掛けることなく、その円の極端な変化の理由を知る者は、たった三人しかいなかった。


 夕焼けの赤は流れる血を思い出させて不愉快だ。
 そんなことを考えて円は軽くため息をついた。
 朱に染まる空を美しいと思えなくなった。それは、ものすごく不幸なことではないのか?
 美しいと思わなければならない。あの空に美と安らぎを見出さなければならない。そう自分に言い聞かせ、沈みゆく太陽をにらみつける。
 我ながら、馬鹿なことをしていると思う。
 皆が不審な目で自分を見ていることは知っている。そして、自分がなぜそのような目で見られてしまうのかもよくわかっている。それなのにどうすることもできない。最近は皆と一緒にいることさえ辛くなっていて、今も皆がめったにこないこの場所で、一人ぼっちで夕陽を眺めている。
 なぜ、こんなことになってしまったのか。なぜ、以前のままでいられなかったのか。笑みと慈しみだけでつくりあげられた世界から、なぜ自分は放り出されてしまったのか。
 けれど、以前のままではいられない。あの哀しい光景を脳裏にやきつけてしまった以上、昔のままではいられない。
 そんなことを考えながら、岩に腰掛けて、じっと夕陽をにらみつけている円の視界を、突然、何かがふさいだ。
 驚いて視界を閉ざすものに手を伸ばしてみると、それは円が愛用しているタオルだった。
「どうしたんだ? 円。こんなところでぼうっとして」
 背後から、耳になじんたやさしい声が聞こえる。
 振り返ると、やはり目になじんだ、やさしい梁の笑顔がそこにあった。
「梁」
「張り切りすぎて疲れたんじゃないのか?」
「そんなことは……」
 梁のからかうような声音に、円が顔を赤らめる。
 円は大変な照れ性で、対人赤面症の気があり、それをカバーするために前髪を伸ばし目を隠している。
 梁は円の隣に腰掛けると、そのまま顔をあわせることもせず、円と同じようにじっと夕焼けをみつめた。
「ここは平和だな。……あの首縊島とはえらい違いだ」
 自分の考えを見透かしたような梁のつぶやきに驚いて、円はかたわらの青年を凝視した。
 梁は円の視線をまっすぐに受け止めると、少し照れたように笑った。
「おまえはやさしいから……あの出来事に一番、傷ついたのはおまえだったんたな」
「そんな……」
「もう、終わったことだ。忘れてしまえ。……と、言いたいところだが、そんなに器用なやつじゃなかったな、おまえは」
「……」
 円は言い返す言葉がみつからなくて、地面に視線を落とした。
「だけどな、あんまり自分を責めるのはよしてくれないか? おれの好きな円を責めるやつは、ちょっと許せないんだ」
 茶化すように梁は笑って、円の前髪をかきあげた。
「だけど、おれの好きな円を許さないわけにはいかなくて……今、二律背反に苦しんでるとこだ」
「梁……」
 梁は円の瞳を覗きこんだ。
 見てはいけないものまでしっかりと捉らえてしまうこの瞳は、哀しい光景を忘れることができない。それでも、ちっとも濁ることのないこの瞳は、以前と変わらず綺麗だ。
 円の苦しみを一刻も速く取り除くことを望みながら、今まで声をかけることをためらっていた理由はただ一つ……気づかせたくはなかったのだ。円が傷つくことで、自分たちが傷ついてしまうことに。円のために皆が傷ついてしまうことに。
 梁はゆっくりと円の額から手を放した。
 円もそれにあわせるようにして、視線を再び地に落とした。
 二人の間に奇妙な沈黙が流れる。
 梁はくしゃくしゃと自分の髪をかきまわすと、小さく息を吐いた。
 ちよっとした勇気が必要なのだ。これから彼がしようとしていることには。
「皆が心配している。特に師匠がな」
 決して円に告げたくなかったことを、梁は口にした。できるだけ円を傷つけないように、できる限りやさしい言葉を選んで。
 だけど、そんな目論見はいつだってうまくいかない。
「師匠が?」
「自分のためにおれたちを苛酷な状況に追い込んでしまったと、侮やんでいらっしゃる。……口には出さないけどな」
「ごめん」
 円は小さく頭を下げた。
 傷ついたのは自分だけじゃない。
 一緒にいた梁も魁も、彼らをそんな立場に追い込んでしまった師匠も、彼らを待ち続けた仲間たちも、それぞれに苦しい思いをした。
 それなのに、どうして自分だけがそれを乗り越えられないのか。
「おれ……本当にだらしなくって……わかってるのに、皆の気持ちは痛いほどわかってるつもりなのに……どうしようもなくって」
 うつむいてしまった円の肩に、梁がやさしく手を回す。
「おまえを責めてるわけじゃない。あんまり気に病まないでくれ」
 梁の言葉はあくまでもやさしい。
 そんな梁に、いつでも甘えてしまうのだ、自分は。
「おれも、きっとおまえと同じことを考えている」
 梁は円の頭をぐいと引き寄せると、自分の肩にのせた。
「浦飯というあの少年がうらやましかった」
 梁が独り言のようにつぶやく。
「人間はあそこまで強くなれるんだと思った。そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。自分もああなりたいと思った……そうだろう?」
「うん」
 梁の言葉に円がうなずく。
 あの吐愚呂というおそろしく強い妖怪を、あの少年は力でねじふせた。
 あの力が欲しいと思った。妖怪たちは何の理由もなく人間たちを襲う。その理不尽さに対抗するだけの力が欲しいと思った。
「だけど、それだけじゃない」
「……」
「浦飯は……大事な人を守りきれなかった苦しみを、おれたちに見せつけてくれた。おれたちは、その姿に脅えてしまったんだ」
「うん……そうだね」
 仲間を自らの非力さゆえに失い、その哀しみに我を失ってしまったあの少年。その慟哭はその場に居合せた者すべてに苦痛を与えた。
 たとえば、あの場で妖怪と対峙していたのが自分だったとしたら、目の前で殺されたのが梁であったとしたら、自分はどうしていただろうか。
 そう考えるだけでも、言いようのない哀しみが自分を襲う。
 あの時、彼の哀しみに彼らは同調してしまった。その哀しみを共有してしまったのだ。
 あの恐ろしい感覚を忘れることができない。
 血に染まり倒れる梁の姿が、夢の中に現れるほどなのだ。
「強くなりたいよ」
 円はこぶしを握りしめた。
「みんなを守れるくらい強くなりたい。あんな目には絶対にあいたくない。弱いっていうだけで殺されてしまう人間が、いていいわけがない」
「もちろんだ」
「それに、彼に受けた恩を少しでもいいから返したい」
「そうだな」
 あれですべてが終わったわけではない。
 あの少年はきっと、今もつらい闘いを続けているに違いない。そんな彼がいつか助けを求めてきたら、すぐに応えてやれるよう、いつでも力になれるよう、自分は強くならなければならない。
「浦飯はおれたちと同じだ。師に恵まれ、仲間に恵まれている。だから何があっても大丈夫だよ。心配することはない」
 梁の笑顔に円が大きくうなずく。
 こんなにも追い詰められてしまったのは、皆を守ることばかり考えてしまったからだ。
 皆は自分に守られておとなしくしているほど弱くない。自分は皆を守りきれるほど強くない。それを認めるところから始めなければならなかったのに、目の前の苦しみに目を奪われて、自分を守ってくれる存在が見えなかった。
 救いはいつだって、手の届くところにあったのに。
「おれたちは恵まれ過ぎた環境の中で生きてきた。それでも、それに負い目を感じる必要はないと思う。師匠はなんの血の繋がりもないおれたちを、愛情をこめて育ててくれた。それが間違ったことであるはずがない。親も身寄りもないおれたちには、庇護してくれる者が必要だった。けれど、おれたちはもう庇護されるばかりの子供ではいられない。おれたちも何かを守らなければならない。それから逃げちゃいけないということだよ」
「うん」
「首縊島の出来事はただのきっかけにすぎない。おれたちは変わらなくっちゃいけなかった。脅えることはないし、悩むこともない。おれたちは変わるべきだったんだから」
 諭すような梁の言葉を、円はうなずきながら聞いていたが、ふいに梁をじっとみつめた。
「梁も……変わった?」
「円にこんな説教をくらわす程度にはな」
 梁はそう言って、くすくすと笑った。円は横で真っ赤になっている。
 梁は笑いながら円の頭を抱きかかえると、ふわふわしたその髪をくしゃくしゃとかきまわした。
「おれたちは変わっていくけど、それでも変われない部分があって、それがそいつの真実なんだと思う。だから真実の円が残っていさえすれば、おれはいつまでも円が好きだよ」
「梁……」
 梁は円の頭を静かに放すと、視線を落とし、照れたように笑った。
 先程の唐突な行動は、正面きって言うには恥かしすぎる台詞を口にするためのものだったということに、円はようやく気づいた。
 梁のようになりたい。師匠のようになりたい。誰かを救うことのできる、やさしい手を持つ者になりたい。
 円はそんなことを考えながら、なにげなく夕陽に目を向けた。
 夕陽が美しく見える。それはとても幸福なことだと円は思った。
「行こう。皆が待っている」
 梁は立ち上がり、円に手を差し伸べた。
 円は小さくうなずくと、梁の手をぎゅっと握りしめ、腰を浮かせた。
 今夜は素敵な夢を見ることができるだろう。
 そう思ったらとてもうれしくなって、円はくすくすと笑った。
 円が笑っている理由を知らない梁も、つられてわけもなく笑っていた。


 帰ったら、皆に『ただいま』を言おう。
 自分のことにばかりかまけていて、そんな簡単な言葉を言うのも忘れていた。
 そして、その後に言う言葉も決まっている。
『心配をかけてごめん。もう、大丈夫。おれは世界で一番、好きな場所に帰ってきたんたから』

おわり

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