TEAR DROP STONE


「そっか、雪菜さん見てたのか」
 鳥の声と葉ずれの音をBGMにした飛影のおだやかな昼下がりは、幽助のそんな台詞で簡単に破られてしまった。
「ゲッ!」
 間を置かず響きわたった声も幽助のもの。予期せぬ来訪者のあまりにも唐突な発言に、飛影が腰をおろしていた樹の枝からずり落ちてしまったために発せられたのである。
「あー、ビックリした」
 飛影の右手首をしっかりとつかみながら、のんびりとした口調で幽助はつぶやいたが、本当にビックリしたのは飛影の方である。
 しかし、「あー、ビックリした」などとは、口が裂けても言えない性分の飛影は、宙づりのまま幽助を見上げ、つとめて冷静な声で命令した。
「手を放せ」
「へっ? んなことしたら、落ちちゃうぜ?」
「おまえ、本気でおれがこの程度の高さから落ちてどうにかなると思ってるのか?」
 馬鹿にしてるのか、と言わんばかりの顔で飛影が言ったのも当然といえば当然である。
 ここから地上までは、たかだか一〇メートルほどしかないのだから。
「ははっ。それもそうだな」
 そう言いつつも、幽助は飛影をヒョイと引き上げ、彼を声をかける直前の状態に戻した。
「でも、わざわざ落ちることもねぇだろ?」
 幽助はニッコリと笑って、ちゃっかり飛影の隣に腰を下ろした。
 幽助から逃げたと思われるのがしゃくなので、飛影はとりあえずその場から動かなかった。
「すっげぇなぁ。こんな場所、よくみつけたよなぁ」
 幽助が感心したようにつぶやく。
 今、二人がいるのは、桑原家の庭から見える山並みの一部になっている山の、そのてっぺんにそびえる大樹の上だが、この場所からは桑原家の庭と、雪菜の私室の窓が、真正面に見える。
 雪菜の生活ぶりをこっそり眺めるには、最高のロケーションといえるだろう。
「おまえ、どうしてこんなところにいる」
「ちょっと散歩してたら、飛影の気配を感じたから」
 飛影の不機嫌もあらわな問いかけに、幽助はあっさりと答えたが、「ちょっと散歩」で、こんな山奥をうろついているあたり、彼には人間界――特に日本――は狭すぎるようである。
「雪菜さん。人間界にすっかりなじんじまって、妖怪だって言っても誰も信じないぜ。……まぁ、もともと妖怪っぽくないけどさ……」
 言われて、飛影はわずかに目をふせ、苦い表情を浮かべた。
「……あんまり、人間っぽくなられるのはイヤか?」
 飛影の表情を読みとった幽助が訊ねる。
「……あれには魔界は似合わない」
 飛影はずいぶんと遠回しな回答をした後、ポツリとつけくわえた。
「おれと違ってな」
 飛影は何かにつけて、自身と雪菜の違いを主張し、その間に高い壁をつくろうとする。
 けれど、こんな遠くからひっそりと眺めているだけで満足しているというのは、本心なのか、強がりなのか、それとも、なにがなんでもそうしなければいけないという思いこみでもあるのか……。
 そんなことを考えて、幽助はしばらく黙りこんでしまったが、それがあまり長続きしなかったのは、彼の性格上、無理からぬことであった。
「そういえば、前々から謎に思ってたんだけどよ……おめぇの涙も氷泪石になんのか?」
 ふいに、関連性があるんだかないんだかよくわからない質問をぶつけられ、飛影はあっけにとられて、幽助の顔をまじまじとみつめてしまった。
「氷泪石は氷女だけが生み出せる。そんなものおれにつくれるわけないだろ」
 幽助の表情と常日頃の言動からして、黙っていてもしつこく同じ質問を繰り返されるだけだと判断した飛影は、そっけなく否定的な答えを出したが、相手はそう簡単に納得してくれなかった。
「それでも氷女の子供には違いねぇんだから、涙が氷泪石になる可能性はあるんじゃねぇのか?」
「泣いたことがないから知らん」
「じゃあさ! 一度、ためしに泣いてみればいいじゃねぇか!」
「そんなことできるか!」
 幽助の提案に、飛影がおもわず怒鳴る。
 これが、冗談や嫌みで言われている場合の対処法ならいくらでもあるが、そのどちらでもないことはあきらかなので始末に困る。
「別にさ、ちょこっと涙を出せばいいだけだろ。簡単なもんじゃねぇか」
「イヤだ」
「絶対に?」
「あたりまえだ。おれが泣く理由なんてどこにある」
「……そっかぁ……」
 幽助はつぶやくと、飛影の顔をのぞきこんだ。
「いつか……飛影の最初の涙を、おれにくれよ」
「?」
「悲しい時に流す涙じゃなくって、うれしくて流した涙を、おれにくれよ」
 先ほどの質問よりも、さらに困ることを幽助は言う。
 その困惑を自覚のないまま表情にあらわしながら、飛影は手近にあった葉っぱをピッとむしった。
「涙を流すほどうれしいことなんてあるわけない」
「あるかもしれないだろ」
「たとえば、どんなことだ?」
「それは……長いことつきあってれば、一度くらいは……あってもいいんじゃ……」
 腕組みをしながらの幽助の発言は頼りない。
 飛影が涙を流して喜ぶこと、と言われても、確かにちょっと思いつけない。だいたい、それが自分自身のことであっても、思いつけなかったりするのだから。
 考えこんでしまっている幽助の横で、飛影は黙って眼下にひろがる風景を眺めていたが、ふいに空を見上げ、意外な提案を行った。
「そうだな……いつか、おまえがくたばったら、涙をふりしぼってやってもいい」
「えっ?」
「それがもし氷泪石になったら、おまえと一緒に墓に埋めてやるからありがたく思え」
「死んだ後でそんなもんもらったって……」
 情けない顔で、もっともと言えばもっともな感想を幽助がもらす。
「そんなものとはなんだ。おまえが欲しがっているから、わざわざくれてやると言っているのに」
「だから、おれはうれしい時に流す涙が欲しいんであって……」
「おまえがくたばった時にうれし涙を流すかもしれないだろ」
「……あいかわらず薄情なやつ」
 プクッと頬をふくらませ、幽助はぼやいたが、意外なほど飛影が会話にのってきてくれているので、うれしさで目が笑っていた。
 しかし、そんな上機嫌も、続く飛影の言葉であっけなく消し飛んでしまった。
「さもなければ……そうだな……死の間際になら、涙を流してやってもいい」
 予想外の話題の展開に、幽助の表情が一瞬にしてけわしくなり、そのまま飛影の顔を凝視する。
「飛影?」
「もしそれが氷泪石になったら、形見にくれてやる」
「……おれ、それ欲しくない」
 さきほどまで、実に熱心に氷泪石を欲しがっていた幽助が、あまりにもきっぱりと言い切ったので、飛影はぶぜんとして幽助をにらみつけた。
「なぜだ? 氷泪石は至高の宝石だ。売ればかなりの値がつくぞ」
「おめぇの涙なんか、売れるわけねぇだろ!」
「そんなことはないだろう。氷女のものより質は落ちるかもしれんが、希少価値は高いぞ」
「それ、本気で言ってんのか?」
 飛影の表情と性格からして、その言葉が冗談やはぐらかしではないとわかってはいたが、それでも訊ねずにはいられなかった。
「あたりまえだ」
「……なら、余計にタチが悪い」
 幽助が不機嫌そうにつぶやくと、プイと横を向いてしまったので、飛影は今度こそ真剣に困り果ててしまった。
 どういうわけだか、幽助がひどく傷ついているように見えたのだ。
「わけのわからないやつだな」
「わかってねぇのは、おめぇの方だ」
「なら、わかるように説明しろ」
 率直に切り換えされて、幽助はポリポリと頬をかいた。
「……たとえば、雪菜さんの氷泪石を、おめぇは誰かに売れるか?」
「売るわけないだろ。雪菜の氷泪石は雪菜のものだ」
「そういう意味じゃなくって……雪菜さんの涙を、金と引き換えにできるか? ってことだよ」
「馬鹿を言うな。誰がそんなこと」
「……つまり、おれが言いてぇのはそういうことだよ」
「なにがそういうことなんだ?」
「だから! おめぇの涙だから金にできねぇんだよ、おれはっ! どうしてそれっくれぇのことがわかんねぇんだよ! ついでに言えばっ! おめぇが死んじまって、氷泪石だけが残って、それでおれにどうしろってんだよ!」
 幽助は激昂して叫んだが、その次の瞬間には、風船がしぼむように、肩を小さくしてため息をついていた。
「そうだよな……おめぇにとって大事なのは雪菜さんだけなんだよな……」
 今度こそ本気ですねてしまった幽助の横顔を、飛影は黙ってみつめていた。
 幽助の言葉はストレートすぎて、時に飛影をとまどわせる。
 それは、幽助にとっては自然なことかもしれないが、飛影にとってはそうではないのだ。
「まったく……」
 飛影はつぶやくと、ひらりと地上に飛び降り、幽助を仰ぎ見た。
「勝手におしかけてきて、勝手にしゃべりまくって、勝手に落ち込むんじゃない!」
 一喝されて、幽助が本当に情けない顔をする。
「だってよ……」
「おれがたったひとつしかないものをくれてやると言っているんだ。それのどこが気に入らない」
 飛影はそう言い捨てると、あっというまに姿を消してしまった。
 幽助はしばらくあっけにとられていたが、ふと我にかえると、ひざをかかえて笑い出した。
 たったひとつしかないものをくれてやる。
 言われてみると確かにすごいことだが、あの飛影がよくそんなことをみずからすすんで認めたものである。
「いいのかよ、そんなこと言って! おれ、すっげくうぬぼれっちまうぜ!」
 幽助は飛影が去った方角に向かって、めいいっぱい叫んだ。
 返答はなかったが、それを飛影がどこかで聞いていることを、さしたる根拠もないのに確信できた。
 そして、幽助はその後も笑いが止まらず……大樹の幹に抱きつき、笑い続けたのであった。

おわり

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