終のすみか


大樹になりたかった

大地に根を張り 穏やかに時を過ごし
愛しい世界を見守りながら
眠るように年老いて 死んでいく

そういうものになりたかった


 それは土曜日の午後のこと。
 一人で商店街をブラブラしていた静流は、ふいに独特の『気』を感じ取り、小さな喫茶店の前で足を止めた。
「この気配は間違えないわよね」
 静流はつぶやくと、口許に微笑を浮かべ、喫茶店のドアに手をかけた。
 チリリンというドアベルの音を聞きながら店内に足を踏み入れた途端に、『気』の持ち主と目があう。
 相手の方も静流の『気』を察知していたのだろう。
「静流さん。遅刻ですよ!」
 蔵馬が妙に明るい表情で手をふる。
 静流はその場に立ち止まったまま、躊躇してしまった。
 蔵馬の正面の席に座っている制服姿の少女の存在に気づいたことと、蔵馬の言葉の意味が読み取れなかったためだ。
 遅刻? まるで、この場所で自分たちが待ち合わせをしていたような物言いではないか。
 少女は蔵馬の言葉に振り返ると、静流をみつめ、愕然とした表情を浮かべたが、それも、その一瞬後には泣き出しそうな顔に変わっていた。
「ごめん……急いでるって、こういう意昧だったんだね。私……ただの言い訳だと思ってたの……本当にごめんね……」
 少女はかたわらの荷物を抱え込むと、蔵馬に向かってペコリと頭を下げ、あたふたと席を立ち、小走りで静流の脇をかけぬけたが、その時、かすかに頭を下げはしたものの、うつむいたまま顔を見せようとはしなかった。
 そんな少女の言動を見ていれば、現在の状況などすぐに察しがつく。
 静流は髪をかきあげ、小さくため息をつくと、先程まで少女が座っていた席にトンと腰を下ろした。
 背後でチリリンという音が響き、少女の最後の気配が消える。
「この私を利用しようだなんて、いい根性してんじゃん」
 にらみつける静流に、蔵馬は素直に頭を下げた。
「すみませんでした。利用するつもりはなかったんです。……でもグッドタイミングでしたよ。静流さんにとってはバッドタイミングだったかもしれませんが」
「はん。蔵馬くんの『気』につられて、こんなとこに来るんじゃなかったよ」
 静流は憮然としてつぶやくと、ウェイターを呼び止め、アイスコーヒーを注文した。
「おれの『気』はそんなにうるさいですか」
「独特だからね。すぐにわかる」
「少し気を抜いていたみたいですね。注意しないと、余計な魔物を呼んでしまう」
「私も余計な魔物?」
「まさか!」
 そう言って破顔した蔵馬を、静流はまじまじとみつめた。
 学生服姿のせいか、首縊島にいた時よりも若干、子供っぽく見える。それとも、あのような特殊な環境の中にいたために、あの時は彼の中の妖怪の顔がより強調されていたのか……。
 これが、『人間』の蔵馬なのかもしれない。
 そんなことを考えていて、静流はふとあることに気づいた。
「蔵馬くんて……なんて名前?」
 ひどく初歩的な質問をぶつけてくる静流に、蔵馬はきょとんとした表情を見せた。
「は?」
「蔵馬って名前で、普通の生活してるわけでもないでしょ?」
「ああ、そういう意味ですか」
 蔵馬はようやく得心がいったというようにうなずいた。
「南野秀一といいます」
「秀一くんね……ふーん。なかなか似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「で? 私が来なかったら、どうするつもりだったわけ?」
 静流は自分が知りたいことを知って満足すると、またまた唐突に話題を変えた。
 ここのところ、傍若無人な連中とばかりつきあっているので、ぶしつけな行動には慣れている蔵馬も、静流が相手では勝手が違う。
 この聡明な女性をはぐらかしたり、まるめこむことはできないのだ。
「もちろん、きちんとお断りするつもりでしたよ。ただ、たまたま母さんとの待ち合わせのためにここに来たら、目の前に座りこまれてしまって……。ここを離れるわけにもいかないし、へたして泣かれて、そこに母さんが来てしまったら、彼女を心配させてしまうじゃないですか。……そんなわけで、さすがに困っていたんです」
「つまり……蔵馬くんは、あの女の子ではなく、おふくろさんのために苦心していたわけ?」
「あの女の子のことも少しは考えていましたよ」
 悪びれる様子も見せず、蔵馬はさらりと答える。
 もちろん、静流にもわかってはいるのだ。つきあう気もない少女を相手に、あやふやな態度をとることの残酷さを。
 蔵馬はきっと正しい。けれど、母親に対してここまで過保護な息子というのも、かなり問題があると思うのたが。
「少しは……ね」
 皮肉げな静流の言葉に、蔵馬が無邪気な笑みを見せる。
 こんなにあどけない笑みを持つ少年が、首縊島で見たあの強大な妖気を放つ銀色の妖狐と同じ存在だとは、自身の目で確かめていても、まだ信じられない気分である。
「でも、本当に静流さんに来ていただけて助かりました。静流さんみたいな美人とつきあっているという噂が流れれば、大分、楽になるはずですよ」
「そんなに女で困ってるのかい? 色男」
 静流はバッグの中からたばこを取り出し、口にくわえると、からかうような視線を向けた。
「幽助や桑原くんみたいな困り方ならよかったんですけどねえ」
 静流の揶揄を否定もせず、蔵馬はしれっとしている。
 ここらへんが、やっぱりとんでもなく性悪な狐であると、静流は思う。
「人間の生活はうっとうしいかい?」
「?」
「昔だったら、そんなことに気を使う必要もなかったろうに」
「……それはまあ……そうなんですけどね」
 蔵馬はわずかに口ごもると、静流から視線をそらし窓の外をながめやった。
 その横顔が妙にさひしげで、静流はバツが悪くなり、火をつけたタバコを無意味に灰皿におしつけている。
「静流さん」
 蔵馬が窓の外に視線を固定させたまま呼びかける。
「なんだい?」
「……ちょっと……弱音を吐いてもいいですか?」
 唐突な問いに、静流は一瞬、眉根をよせたが、すぐに口の端にかすかな笑みを浮かべると、テーブルに両ひじをつき、身を乗り出して蔵馬の顔をじっとみつめた。
「寝言なら、聞いてやってもいいよ」
 静流の言葉に蔵馬がくすりと笑う。
「では、これから寝言をいいますけど、気にしないでください」
 そう言いながら蔵馬は、頬づえをつき、静かに瞳を閉じた。
「これからおれは母さんと一緒に、新しい父の家族に会いに行くんです。新しい父親、新しい弟、新しい祖父、祖母、叔父、叔母……その他、たくさんいるらしいです」
「そりゃまた……大変だねえ」
「……おかしいですね。寝言に返事がかえってきますよ」
「夢の中で誰かと会話をするなんて、よくあることさ」
「……それもそうですね」
 蔵馬は瞳を閉じたまま、実に正確にコーヒーカップを持ち上げると、それを一ロすすった。
「母さんには新しい家族ができます。……おれがいなくなっても、もう彼女は一人ぼっちにならないんです」
「蔵馬くん」
「おれの肉体は確実に妖化しています。おそらくはこれ以上、年をとりません。こうやって人間として、普通に生活できるのはあと三、四年が限度といったところでしょう」
「……」
「そうしておれはまた長い時を生きていくことになります。母さんが死んでも、幽助が死んでも、桑原くんが死んでも、静流さんが死んでも……おれは生きているんです」
 次第に小さくなっていく声と、それに反して大きくなっていくその言葉にこめられた想いが、ひどく痛々しく感じられる。
「……ここを……『終のすみか』にしたかった……」
 蔵馬はそうつぶやくと、頬づえをついていた腕をそっと動かし、両手をひろげ、顔を覆った。
「ここで生きて、ここで死にたかった。母さんを守りたかった。幽助たちと一緒に年をとりたかった。だけど、おれは母さんを守る役目を新しい家族に譲らなくちゃいけない。おれは置き去りにされてしまう……この幸福に……幽助たちに置き去りにされてしまう……」
 そう言ったっきり、蔵馬は沈黙してしまった。
 顔を覆った両手もピクリとも動かない。
「『終のすみか』……ねえ。若者の使う言葉じゃないよ」
 静流は苦笑まじりにつぶやくと、そうっと両手を伸ばし、蔵馬の手首をつかむと、蔵馬の顔を覆う手をはがした。
 蔵馬は目を大きく見開き、静流をみつめている。
 ただひたすらに静かな瞳だった。
 先程までの未来におびえていた少年と、いつ入れ替わったのかと思うほど……。
 静流は蔵馬の手首から手を離すと、トンとテーブルをライターでたたいた。
「たとえば……」
 ライターを指先でもて遊びながら、静流がつぶやく。
「百年ぐらい経って、蔵馬くんが好きだった人間が皆、死んでも、蔵馬くんを好きでいてくれた皆は、子供たちに蔵馬くんのことを話していて、その子供たちは、自分の父親はこんなやつを知っていたんだぞ、って誰かに話したりするかもしれない」
「静流さん?」
「たとえば、二百年ぐらい経ったら、誰かが転生して、蔵馬くんは新しい顔を持った、大好きな魂と再会することができるかもしれない」
 静流はそう言って笑った。
 きれいで力強い笑みだった。
「たとえば、生まれ変わった私に、蔵馬くんは道ばたで声をかけてくれるかもしれない。『久しぶり』って……。そしたら私は、この馴れ馴れしい男は何なんだって怒って、蔵馬くんを殴り倒すかもしれない……。そんなことを考えてると、すっごく愉快な気分にならない?」
 蔵馬はあっけにとられた様子で、静流を凝視していたが、ふいにくすくすと笑いだした。
「殴り倒されるところを想像して、愉快になれというんですか?」
「蹴り倒すかもしれないけどね」
「そりゃあ、ひどい」
「そう? 私は楽しいけど」
「静流さんはそうでしょうけどね」
 うなずく蔵馬の瞳から、突然、一粒の涙がこぼれ落ちる。
 だが、彼はそれを隠すことも、ぬぐうこともせず、うるんだ瞳を静流に向けていた。
「ごめん。タバコを吸ってもいいか聞くのを忘れてたね。煙が目にしみたみたいだ。……蔵馬くん、煙に弱いのかい?」
 静流は動じる様子も見せず、蔵馬の頬に指をはわせ、涙をぬぐう。
「……煙に弱いんじゃありません」
 蔵馬は指を動かし、自分の頬に触れている静流の指にそっと触れた。
「静流さんに弱いんです」
 静流はおもわず息をのんだが、ふいに苦笑いを浮かべると、蔵馬の額を右の人差し指でチョンと小突いた。
「さすがに色男は言うことが違うね。さすがの私もグラッときちゃったよ」
「人聞きの悪いことを言わないでくたさい。母さんにだって、こんなこと言ってませんよ」
「おふくろさんにそんなこと言ってるようなら、はやいとこ家を出た方がいいよ」
「それって、どういう意味ですか?」
「胸に手をあてて、よく考えてみな」
 二人は軽口を応酬し、くすくすと笑いあい、そしてふっと真顔になった。
「幽助くんみたいな特別な子は、千年に一人ぐらいしか生まれてこないかもしれない。それなら千年、待てばいいのよ。そうしたら、もう一度、幽助くんに会える」
「そうですね」
 静流の力強い言葉に、蔵馬がうなずく。
 『終のすみか』はここにある。
 どこで生きようと、どこで死のうと、必ず自分はここに帰ってくる。
 どれほどの距離を隔てても、どれほどの時間を隔てても、千年かけて探し出した場所を見失ったりしない。今はそう確信することができる。
 二十年も生きてはいない人間が、千年以上の時を生きてきた妖怪を救ってくれる。そして、そんな『救い』に自分は生かされている。
 だから、自分はこれからも生きることに執着し続けるだろう。
 『救い』を与え、『生』を与えてくれる者たちが、自分が生き続けることを望んでくれるから。生きることは、愛する者たちに対する義務であるのだ。
「寝言を聞いてくださって、ありがとうございました。なんだかとても楽になりました」
 蔵馬はそう言って頭を下げると、コーヒーカップを口許に運んだが、その手を途中でピタリと止めると、瞳をふいに輝かせた。
「母さん!」
 蔵馬が声をあげ、反射的に静流が振り向くと、出入口のあたりでキョロキョロと周囲を見渡していた女性が、穏やかな笑みを浮かべながら、二人に近づいてきた。
「ごめんなさい、秀一。待たせちゃったわね」
「大丈夫だよ。ちゃんと話相手がいたから」
 そう言って蔵馬が静流を指差し、静流が軽く会釈する。
「友達のお姉さんなんだ。偶然、会ってね」
「いつも弟がお世話になっています」
「こちらこそ」
 志保利と静流が社交辞令を交わしている間に、蔵馬は立ち上りレシートをつかんだ。
「おかげで助かりました。お礼にそのアイスコーヒーをおごりますね」
「サンキュ」
「桑原くんにもよろしく」
 蔵馬はそっと志保利の背に手をそえると、出入口に向かって歩きだす。
 その母親をみつめる蔵馬の表情があまりにも幸福そうなので、静流はおもわず苦笑してしまった。
「二百年後の再会を楽しみにしてるから、ちゃんと私の魂を見分けなよ」
 静流はつぶやき、ストローに口をつけた。
 その耳にふいに声が飛び込んでくる。
「相手が静流さんなら、会えばすぐにわかると思いますよ」
 静流がおもわず振り返ると、閉まりかけたドアのすきまから、パタパタと振られた蔵馬の手が見えた。
 その時、静流はようやく蔵馬の聴覚の鋭さに思い当たり、窓の外に視線を転じると、母親に話しかけながら歩いている蔵馬の横顔をみやった。
 あんなにうれしそうに母親と歩く息子なんて、どこにもいやしない。
 まったく……芝居がうまいようでへたなんだから。
「耳としっぽをちゃんと隠して、うまく人間をだまし続けることだよ。狐さん」
 そうつぶやいた途端に、窓ぎわに飾られていた小さな青い花がピョコンとおじぎをしたので――静流は人目もはばからず、テーブルにつっぷして笑いこけてしまったのだった。

おわり

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