夢でないなら


夢でなんか逢いたくない 現実(ホンモノ)のおまえだけに逢いたい


 魔界の森の中、無防備に眠る一匹の妖怪の姿があった。
 それは、はっきりいって、正気の沙汰ではない行動である。
 危険な妖怪どもが蠢く魔界の森で、熟睡する馬鹿など、どこにもいない。
 けれど、彼はピクリとも動かず、ぐっすりと眠りこんでいる。かすかに発している妖気がなければ、死んでいると思われて当然なほどだ。
 そして、当然のごとく、彼がその場に『落ちて』からものの五分も経たないうちに、低級妖怪たちが彼ににじりよってきた。
 彼らは大した知能を持たない。
 ただ、食べたことのない上等なエサ――A級妖怪の肉体――につられて、集まっただけのことである。
 だが、深い眠りに落ちてしまった彼は、常ならば近寄せることさえしないそんな低級妖怪たちを追い払う力を持たず、エサになる運命をおとなしく受け入れるはずだった。
 その時、その人物が現れさえしなければ……。
「どけ!」
 ふいに現れたその人物は鋭く命じると『気』を放った。その『気』を受けた妖怪たちが、短い悲鳴をあげながら消滅する。
 あまりにも強大な『気』に抵抗する力を、彼らは持たなかったのだ。
 だが、幽助はそんな不幸な運命をたどった妖怪たちには目もくれず、飛影の元へ歩みよると、そっとひざまずき、丁重な手つきでうつぶせになっている彼をあおむけにした。
 飛影の顔は苦しげに歪んでいる。
 幽助は痛ましそうに飛影をみつめると、そのかたわらに座り込み、左胸に静かに手を当て、『気』を送りこみはじめた。
 自分は治癒能力を持っていない。こんなことをしても無駄だと知っている。
 それでも、そうせずにはいられなかった。
 しばらくして、飛影の指がピクリと動いた。
 幽助が反射的にその名を呼ぶ。
「飛影!」
 真摯な呼びかけに反応してか、飛影の指が何かを求めて動き出した。
 幽助がおもわずその指に手を伸ばすと、飛影はぬくもりを求め、指に指をからめてくる。
「おっ……おい」
 おもわぬ反応に幽助はうろたえたが、苦しげだった飛影の表情がみるみるうちにやわらいできたことに気づくと、穏やかな笑みを浮かべ、その手をギュッと握り返してやった。
 なんだか、指をさしだすと無条件に握りこんでしまう赤んぼうみたいだ。
 幽助がわざと指をふりほどくと、飛影は何もない空間に指をさまよわせ、不安げに眉をひそめる。
 あわてた幽助が指を近づけると、飛びつくようにして指にすがりつき、安心したように表情をゆるめる。
 幽助の薬指が逃げる。飛影の中指が追う。幽助の親指が飛影の小指に触れる。飛影の人指し指が幽助の中指にからまる。
 そんなたあいのない指遊びを幽助は無心に続けていたが、穏やかだった飛影の表情が、突然、ひどく哀しげになったことに気づき、驚いて動きを止めてしまった。
 飛影のかたく閉じられたまぶたのすきまから、ふいに一粒の涙がこぼれ落ちる。
「う……そだろ」
 幽助はうめいた。
 飛影が……たとえ眠っている時であれ、泣くなんて……。
 いたたまれなくなった幽助は、指でそっと涙をぬぐった。
 その瞬間、飛影の頬がピクリと動く。
 あわてた幽助が指をひっこめると、飛影がうっすらとまぶたを開いた。
「幽……助?」
 聞き取るのがやっとのかすれ声が、耳に届いたその瞬間、幽助はポロリと涙をこぼした。
 この声が聞きたかった。
 この声でおれの名前を呼んで欲しかった。
「ごめん。ひどいめにあわせちまった。謝る。だから……許してくれ」
 幽助は飛影を見下ろしながら、涙ながらに謝った。
 何度、謝っても足りない。どんな言葉も追いつかない。
 いつもいつも助けられてばかり。借りばかりが増えていって、飛影に何も返してやれない。
 そして、今度はおれのために無茶をさせて、もう少しで飛影を永遠に失うところだった。
「すまねぇ……飛影」
 泣きながら謝る幽助を、飛影はぼーっとみつめた。
 幽助は死んだ。
 あの時、おれの目の前で幽助は死んだ。
 胸の鼓動は止まっていた。霊気も消えていた。
 幽助は確かに死んでいた。
 その幽助がなぜ、ここにいる? なぜ、こんなところで泣いている?
 おれはまだ……夢の中にいるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、頬を温かいものが流れていった。
 これは……幽助の……涙?
 その瞬間、飛影はガバリと上半身を起こした。
 もしかして……夢じゃない?
 現状を把握しきれずに混乱をおこしている飛影の肩に、幽助が手をやる。
「飛影。大丈夫か? どこか痛いのか?」
 幽助の指の感触と、そこから流れこんでくる熱に、飛影はおもわず赤くなった。
 なんだ? この感覚は。
 熱い……とてつもなく熱い。
 こんなところにいてはいけない。幽助のそばにいてはいけない。
 幽助のそばは……危険だ。
 なにが危険なのかはわからない。だけど、危険だ。それだけはよくわかる。
 飛影は自分にもわからぬ何かに駆り立てられ、あせってその場を立ち去ろうとした。
 だが、幽助はとっさにその右腕をがっしりとつかみ、腰を浮かしかけていた飛影を強引に引き戻してしまった。
 バランスを崩した飛影が、座ったままの幽助のふところに転がりこむ。
「放せ!」
 わめき声を無視し、幽助は飛影を背中ごしに抱きすくめた。
 飛影は両肩にまわされた腕を振りほどこうとじたばたするが、幽助は抱きしめる力をゆるめようとはせず、飛影におおいかぶさるような姿勢をとったまま動かなくなってしまった。
 ただ……飛影の存在を確かめたかった。
 そして、飛影に自分が確かにここに存在するということを、教えてやりたかった。
 二人の肉体も魂も熱もここにある。……ここだけにある。
 それだけの事実が、おれにとってどれほどの価値を持っているか……おまえは知っているのか?
「ごめん。おれ、もう死なないから」
 幽助は、ふいにそうつぶやいた。
 その言葉に、飛影がかっとなって叫ぶ。
「そんな約束、信用できるか!」
 信用なんかできない。
 もう二度と幽助なんかに近づかない。
 こいつはおれの気持ちをかきまわすばかりだ。
 おれに何も与えないくせに、おれの中のなにもかもを、あらいざらい奪っていく。
 言葉なんか信用しない。未来なんか信用しない。幽助なんか信用しない。
 幽助の声なんか聞きたくない。幽助の顔なんか見たくない。幽助の熱なんか感じたくない。幽助のことなんか考えたくない。
 飛影はそうやって幽助のすべてを拒否しようとしたが、声は聞こえてくるし、熱は伝わってくるし、感触も消えなかった。
「飛影……すまねぇ」
 そして、幽助はただひたすらに、飛影の名を呼び、許しを乞い続けるが、決して飛影を手放そうとはしない。
 そうやって二人は互いの想いを理解しあえぬまま、自身の要求を心の中で主張し続けていたが、そんな決着のつけようもないやりとりにも、終わりの時はやってきた。
 覚醒を強制させていた精神が、ついに眠りを欲する肉体に敗北し、飛影は強烈な睡魔に襲われたのである。
 抵抗する力が失われてくる。幽助の熱と声だけが、世界のすべてになっていく。
 こいつは、こうやってすべてをごまかし、おれをまるめこむんだ。
 まぁ、いいだろう……これが夢でないのなら……幽助が本当にこの世に存在するのなら……後でいくらでも文句はつけられる……。
 飛影はそんなことを考えながら、すうっと意識を失った。
 糸が切れたマリオネットのように、ガクリと力を失った飛影に驚いた幽助が、あわてて彼を振り向かせ、ペタペタと頬を叩く。
「おい! 飛影! また、寝ちまったのか?」
 だが、飛影は何にも反応することなく、瞳をかたく閉じ、幽助にからだを預けている。
 幽助は飛影を抱いたまま立ち上がると、じっと飛影の顔をみつめた。
 死なないから。もう絶対に死なないから。おれはおまえだけに殺されてやるから。
 おれのそばにいるのが嫌になったら、まっさきにおれを殺して欲しい。
 おまえに殺されない限り、おれはおまえにつきまとい続けてしまうだろうから。
 そうして幽助は、あきることなく飛影の寝顔を凝視していたが、ふいに耳に飛び込んできた声に、周囲をキョロキョロと見渡した。
「幽助!」
 蔵馬の声だ。
「おーい。ここだ」
 幽助は応えると、近くの目立ちそうな大岩に飛び乗った。
「飛影は無事でしたか」
 大岩の上に着地した幽助をみつけた蔵馬が、駆け寄ってくる。
「眠ったまま起きないんだけど、大丈夫かな」
「あれだけの黒龍波を撃った後ですからね。無理もありません」
「じゃあ、また『冬眠』に入っちまったのか」
「そういうことですね。今回は六時間ぐらいじゃすみませんよ、きっと」
「そっかぁ……本当に無理させちまったんだな」
「無理をしたのは、飛影だけじゃありません」
 飛影を大事そうに抱いている幽助を、蔵馬がうらめしそうにみつめる。
 幽助はわずかに顔をあからめると、ペコリと頭を下げた。
「すまねぇ!」
 蔵馬はかすかにため息をつくと、幽助の肩をポンと叩いた。
「詫びの言葉は後で聞きます。とにかく、人間界に戻らないと」
「そうだな」
「ところで……」
 蔵馬はそこで言葉を切ると、あどけない寝顔を見せている飛影に視線を向けた。
「飛影も人間界に連れ帰るんですか?」
「ん? あたりまえだろ?」
 なんで、そんなことを聞くんだとばかりに、幽助が首をかしげる。
「けれど、飛影は魔界に帰りたがっていましたよ」
 蔵馬の指摘に、幽助は顔をしかめた。
 飛影を置いていく? こんな場所に? 一人ぼっちで?
 幽助は困りはてた様子で、腕の中の飛影をみつめていたが、ふいにギュッと唇をかみしめ、蔵馬をにらみつけた。
「そんなの、おれが許さねぇよ」
 こうなったら、本人の意志なんか知らない。
 おれは飛影と離れたくないんだから。
「飛影に殺される役は、幽助がやってくれるんでしょうね」
 蔵馬が意味ありげな微笑を浮かべる。
「あったりめぇだろ! そんないい役、おめぇや桑原に譲ってたまるか」
「おやおや」
 蔵馬がおおげさなため息をついてみせたその時、バサバサという羽音をたてながら、プーがゆっくりと幽助の横に降り立った。
 その背には、やはり意識を失っている桑原が、植物のつるでしっかりと縛りつけられている。
 力を使い果たしてしまった桑原に危険が及ばないようにと彼をプーに預け、幽助と蔵馬は戦いの途中、森のどこかに墜落してしまった飛影を探しまわっていたのだ。
「ようやく揃ったな」
「ええ、これでようやく、四人一緒です」
「もう、こんなところに用はねぇ。さっさと人間界に戻るぞ」
「そうするとしましょうか」
 そして四人はプーの背に乗り、約一名の意志をまったく無視したまま、人間界に戻ったのだった。

おわり

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