夢の跡


忘れない
誰もが夢を見ていたことを


 風が吹く。
 砂塵が舞う。
 幽助は無言のまま、目の前に広がる光景を凝視していた。
 つわものどもの夢の跡がそこにある。
 流されたおびただしい血も、哀しみに耐え切れずあふれ出た涙も、闘いに破れた者たちの屍も、今は闘場のなれの果てであるこの瓦礫の山の下で、誰の目にも触れることなく、ひとつに融け合う日を待っていることだろう。
 あれはいつのことだった?
 闘場はいかめしく、自分たちに無言の威しをかけていた。妖怪達はスタンドにあふれ、自分たちの死を待ち望んでいた。吐愚呂たちは自信に満ちた笑みを浮かべ、自分たちを睥睨していた。
 そうだ、あれは昨日のことだった。
 まばたきひとつ分ぐらいしか時が過ぎていないような気もするし、十年も昔のことだったような気もする。
「幽助」
 穏やかで暖かい声に呼ばれ、現実に意識を引き戻した幽助は、心配気に自分をみつめる蔵馬を振り返った。
「すまねえ、起こしちまったか? 静かにしてたつもりだったんだけどな」
「こんな朝、早くにどうしたんですか?」
 幽助は東の空のはしがかすかに色づき始めたばかりの時間にホテルの部屋を抜け出したのだが、そのことに気づいたのは蔵馬だけだった。
 桑原は高いびきだったし、気配に敏感なはずの飛影も黒龍波の影響が残っているのか、珍しくぐっすりと眠り込んでいたのだ。
 そして、太陽はいまだ地平線にひっかかっていて、皆も夢の中をさまよっているはずだ。
「いや、なんか目が覚めちまって……そしたら、なんとなくここに来たくなったんだ」
「すみません。考え事の邪魔をしてしまったみたいですね」
「いや。かまわねえよ」
 幽助は答えると、大きな瓦礫の一つに身軽に飛び乗り、空を見上げ、大きく背伸びをした。
「ここって、こんなに静かでいいとこだったんだな。ちっとも気づかなかったぜ」
「昨日までは、それどころじゃありませんでしたから」
「この島が悪いんじゃないんだ。この島で悪いことをやったやつらが悪いんだな。そんなこともわからねえで、この島を嫌っちまった。……悪いことしたな」
「そうですね」
 蔵馬は目を細め、足元の悪い瓦礫の上で飛び跳ねている幽助をみやった。
 この場所に、幽助は何を求めたのだろう。何を探しに来たのだろう。
 それを聞きたいのだけれど、なんとなく聞きそびれている。
「おーい、蔵馬ぁ」
 瓦礫のかげに隠れて、見えなくなってしまった幽助の大きな声が、静寂の地に響き渡る。
「どうしました?」
「吐愚呂がどこらへんにいるか、わかるか?」
 突然の質問に蔵馬は顔をしかめたが、瓦礫の上に身を躍らせ、幽助の視界にその姿を現した時には、いつもの穏やかな表情を取り戻していた。
「このあたりだと思いますけど」
 蔵馬は不安定な足場をものともせず、いつもの優雅な足どりで瓦礫の上を歩き、とある地点で立ち止まると、幽助に視線を向けた。
「……そうか……」
 幽助は複雑な表情を浮かべると、蔵馬の元へとやってきた。
「それで、あそこらへんが鴉。そっちあたりに左京が立っていましたよ」
 蔵馬はそう言いながら、指でそれぞれの場所を差し示してみせた。
 こっぱみじんに爆破され、跡形もなくなっている闘場の元の姿を、蔵馬はきちんと記録していたかのように正確に覚えている。
「さすがによく覚えてんな」
 幽助は蔵馬が教えてくれた場所に座り込み、灰色の岩の塊を凝視した。
 そのまなざしは岩を突き抜け、その下に横たわっている吐愚呂の屍をみつけることができるのだろうか。
「蔵馬」
「なんです?」
「おれ……吐愚呂のこと嫌いじゃなかったな」
「……そうですか」
 うつむく幽肋を、蔵馬はやさしいまなざしで見守っている。
「ばあさんも、自分を殺したやつだっていうのに、吐愚呂のことを憎んでいなかったみてえだ。なんでだろう」
「おれも鴉のことを嫌ってはいませんでしたよ」
「…………」
 蔵馬は微笑を浮かべ、さらりと言った。
 その、風になびく長い黒髪は、灰色の世界からひどく浮き上がって見える。
 遠い目をしてここには存在しない何かをみつめている蔵馬を、幽助は黙ってみつめた。
「憎いから殺し合いをしたわけじゃないんです。おれと鴉も、貴方と吐愚呂も、師範と吐愚呂も……たまたま対立してしまった時に、譲り合うということができなかっただけです。それは不幸なことでしたけれど、おれたちはそうすることでしか自分の主張を守ることができなかったし、皆、自分の主張には命を賭けていたんです。だから……互いにそれがわかっていたから……勝った者も負けた者も、互いを憎むことができなかったんですよ」
 蔵馬は詩を朗読するような静かな口調でそう言うと、幽助をみやった。
「吐愚呂に……恨み言を言いたかったんですか? お別れを言いたかったんですか? それとも、聞きたいことがあったんですか?」
 幽助は驚いたように蔵馬を凝視すると、ふいににっこりと笑った。
「おれにもよくわかんねえや。よくもばあさんを殺しやがったな! ってわめきたかったような気もするし、もう二度と会うことはねえな、って言いたかったような気もするし、なんで桑原を殺さなかったのか? って聞きたかったような気もする……」
「そうですか」
「なあ、蔵馬……妖怪やめて、人間やってて、いいことあったか?」
「ずいぶんとやぶからぼうな質問ですね」
「吐愚呂は人間やめて、妖怪やってて……いいことあったのかなあ」
 独り言のような幽助の言葉に、そういうことですか、と蔵馬がうなずく。
「おれはいいことがあるから人間をやってます。吐愚呂がどうだったかは、今となっては闇の中ですが、彼は妖怪になりたかったのではなく、妖怪にならなければならない理由があった……そんな気がします」
「闘わなきゃならねえ理由。ばあさんを殺さなきゃならねえ理由。妖怪にならなきゃいけねえ理由……むずかしいやつだったんだな」
「皆が皆、幽助みたいにシンプルに生きてるわけじゃありませんよ」
「どーせ、おれは単純だよ」
「……だけどね、実はそれが一番、難しい」
「?」
 不要領な表情をしている幽助に、蔵馬は微笑みかけた。
「幽助は、いつまでも幽助でいてくださいね。どんなことがあっても、幽助でいてくださいね」
 吐愚呂が吐愚呂でなくなってしまったために、道を違え、殺し合いまでした幻海師範のことを思う時、自分ならばどうするかと考える。
 幽助が幽助でなくなってしまったら……自分は幽助から離れるだろうか、幽助を憎むだろうか、幽助を殺したいと思うだろうか。
 いずれにしても、幽助と行動を共にすることはできなくなるに違いない。
 それはきっと……何よりもつらいことだ。
 頼りなげな表情を浮かべて自分をみつめている蔵馬を、幽助は気難しそうな表情で見上げていたが、ふいに、何も言わずに右手を差し出した。
 蔵馬はまばたきをすると、口許に笑みを浮かべ、やはり右手を差し出して、幽助の手首をつかみ、そのからだを引き起こす。
 そして幽助は、立ち上がり手が離れた途端に、蔵馬の両脇の髪を外側にピッとひっぱった。
「なっ……」
 幽助の突然の行動に、蔵馬は唖然として目をパチクリさせた。
 めったに見ることができない蔵馬のビックリ顔に、幽助はその両肩をたたきながらゲラゲラと笑っている。
「幽助……いくらなんでも笑いすぎですよ」
 我にかえった蔵馬がこめかみに手をあてながら、ため息まじりでつぶやき、幽助は悪い悪いと言いながら、なんとか笑いをひっこめた。
「頭のいいやつって、ずいぶんと余計なことを考えるんだな。おれがおれ以外の何になるっていうんだよ」
 幽助の自信満々といった表情に、蔵馬はわずかの沈黙の後、しっかりとうなずいた。
「確かに幽助に限って、そんな心配はありませんね。本当に余計なことを考えてしまいました」
「おれは吐愚呂みてえにはなんねえし、おめえらにばあさんみてえな思いもさせねえ。約束する」
 力強い瞳が蔵馬を見上げ、力強い拳がその胸をコツンと叩く。
 では、幽助にはわかったのだ。自分が何に脅えていたかが。
「……約束なんかいりません」
「へっ?」
「あたりまえのことですから、そんな必要ありません」
「それもそうだな」
「……もうそろそろ帰りましょうか……桑原くんたちが起きた時に、おれたちがいないと心配させてしまいますよ」
「そうすっか」
 二人は瓦礫の山から降りると、ホテルヘと足を向けたが、幽助はふいに立ち止まると、闘場跡をふりかえった。
「幽助?」
「……五十年後にまたここに来たいな……四人一緒に」
 幽助のつぶやきに、蔵馬はふと思った。
 この場所はきっと五十年間、何も変わらない。では、自分たちも五十年間、変わらずにいられるのだろうか。
「そうですね。五十年後に来ましょう。四人一緒に」
 蔵馬は明るい口調でそう答えたが、もちろん、五十年という人間にとって長い時間を軽くとらえているわけではなかった。
 将来に不安を感じていないわけではない。自分はそこまで脳天気にはなれない。
 それでも、幽助と一緒ならば何かあっても大丈夫、という奇妙な確信がある。
 だから、五十年後に四人一緒にここに来れると信じよう。
 皆が命懸けの夢を見たこの場所に。

おわり

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